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2023年11月12日 礼拝動画

11月12日礼拝動画を配信いたしました。

「十二弟子の任命 ー 行って実を結ぶために」

■聖書 

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 主イエスが12人の弟子たちを御許に呼び寄せ、彼らを使徒として任命した目的は、14節と15節に記されているように、「それは、彼らを御自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるため」でした。まず、彼らは主イエスのそばに置かれました。それは、先週学んだように、安息日の守り方に関して、宗教的指導者たちと激しい論争をした結果、主イエスに切迫していた危険に備えるためではありませんでした。この12人の弟子たちを親衛隊のようにして御許に呼び寄せたという意味ではないのです。生活を共にすることによって、全人格的な教育をするためだけでもありません。それ以上のものでした。主イエスによって、御許に呼び寄せられた者たちにとって一番大切なこと、第一のことは、「主イエスと共にある」ということです。「行って実をむすぶため」と、主が言われるのですから積極的に世に出て行くことも大切なことだと思いますが、「彼に留まっていること」、ぶどうの枝がその幹につながっているように、キリストにとどまることのほうを、私たちはより大切なこと、より基本的なこととしなくてはなりません。なぜなら、主イエスに聴き従う者たちが、主の許に留まり、イエスのようにされていくことによって、主にある者たちは整えられ、福音は力強く前進していくからです。それが、キリストにある宣教活動の正しい出発点です。

こうして主イエスが、12人の弟子たちを選び、使徒として任命した第二の目的は、「彼らを遣わして宣教をさせるため」そして、第三の目的は「彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるため」でした。こうして弟子たちは、ただ主イエスのそばに置かれ続けるだけではなく、この世に遣わされました。主イエスのそばに置いていただいている人間として、宣教に遣わされたのです。彼らの使命は、主イエスが宣言されたように、「時が満ち、神の国が近づいた。」つまり、神のご支配がすでに始まっているという喜びの知らせを人々に告げるものでした。そのことのために、彼らは主イエスから、人々をそれまで支配し苦しめていた悪霊を追い出す権威、力を与えていただいたのでした。





# by nazach | 2023-11-12 14:46

2023年11月5日 礼拝動画

11月5日礼拝動画を配信いたしました。

「安息日の主イエス」

■聖書 ルカの福音書6章1~11節

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 「人の子は安息日の主です。」「人の子」とは、イエスご自身を指す言葉です。そして、「安息日の主」とは、安息日を支配する権威を主イエスが持ち、安息を与える者であるという約束であり、神と等しい権限を御自身が持っておられるという主張にほかなりませんでした。こうして、主イエスは当時の安息日についての行き過ぎた解釈、極端な教えに縛られていた人々に、安息日の本来の意味と精神を回復されようとされたのです。それは天地万物の創造者であられる主が人々と共におられることを覚え、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から救われたことを記念し、喜び感謝して仕事をしないという元々の安息日を取り戻す闘いでした。主イエスは、罪によってそこから抜け出すことのできない、悲惨な罪の奴隷状態にある私たちを救い出して、真の平安と喜びの中に憩わせてくださる安息日の主です。そして私たちは安息日ごとに主イエスを覚えて、礼拝をするために、今行っていることを止めて、ここに集っています。こうして主イエスの復活によって、土曜ではなく日曜を安息の日とした私たちキリスト者は、日曜日を主の日として大切にして来たのでした。私が人生の主ではなく、主イエスが私の、私たちの主であることを告白して来ました。私たちは、安息日の本来の意味と、主イエスの命をかけた行動によって示された安息日のさらに豊かな意味を受け止めさせていただきたいと思います。それは、このとき主イエスは、安息日に「何をすべきではないか」だけに関心を持っていたパリサイ人に、何をすべきではないかではなく、何をすべきかを問われていたからです。パリサイ人たちの考えは、否定的、消極的なものでした。彼らは安息日には何もしないことが善だと考え、目の前に苦しむ人がいてもあわれみの心をもつことをせず、苦しむ者を、イエスを訴える好都合の道具とさえ見なしていました。しかし、安息日の真の主であられる主イエスは、安息日に善をなし、ひとりの「いのちを救う」ことに、深い関心を持っておられたのです。この主イエスの愛と、苦しむ者たちに対する関心は変わることがありません。主イエスよって与えられる永遠の愛を私たちは、人は、疑ってはなりません。



# by nazach | 2023-11-05 11:42

2023年10月29日 礼拝動画

10月29日礼拝動画を配信いたしました。

「良くなりたいか」

■聖書   ヨハネの福音書 5章1~10節 

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 エジプトを出て、カデシュ・バルネアという重要な場所で、前進するための信仰的決断をする絶好の機会を失って以来、38年もの間、イスラエルの民は荒野を旅し続けなければなりませんでした。それはイスラエルの人々にとって、まさに困難な旅でした。そして、この男の人生もまた、荒野を、それも一人で旅するような喜びと希望のない虚しい人生であったと言わざるを得ないのです。しかし、そのような暗闇の中を、希望のない世界を生きてきたこの人の人生に、主イエスによって今、天よりの光が差し込みました。主イエスはこのとき、この場所に横になっている男に目を留め、長い間そうしていることを知ると、彼に言われます。「良くなりたいか」「起きて床をとりあげて歩きなさい」と。それは救い主イエスの前に、誰一人見捨てられる人はいない、主が御声をかけ、共に歩んでくださることの良き知らせ、福音でした。

 主なる神は、キリストにあってすべての人を愛し、大切にしておられます。誰一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つこと、真理を知ることを願っておられます。その一人ひとりへの神の深い思いが、ここで、神のひとり子イエス様を通して、この一人の男に注がれていたのでした。そして、この記事を読む私たちは、神さまの深い愛と思いがこの私にも、そして私がかかわるすべての人々に今、豊かに注がれているのだという事実、その真実を見たい。その神の愛と恵みを大切に受け取らせていただきたいのです。聖書には、「生きよ!」という神のメッセージが響き渡っています。エゼキエル書18章31、32節には、次のような言葉があります。「あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、誰が死ぬのも喜ばない。―神である主のことばーだから立ち返って生きよ。」これが、今も、イスラエルに語られている主なる神の言葉です。誰も、誰が死ぬもの喜ばない。それが主の御心です。アモス書5章4節には「わたしを求めて生きよ」とあります。私たちは主の言葉に、支えられて生きなければなりません。


# by nazach | 2023-10-29 14:25

2023年10月22日 礼拝動画

10月22日礼拝動画を配信いたしました。

「主イエスが招く人」

■聖書 マタイの福音書 9章9~13節

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 主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためです」と、言われます。「正しい人」という言葉には、律法を厳格に守ることによって、神の御前に、自分たちだけが正しいと信じて、他の人々を見下し、差別し、裁いてばかりいるパリサイ人への皮肉が込められていました。

一方、「罪びと」とは、パリサイ人たちが見下していた取税人や罪びとたちのことでした。しかし、私たちは、主イエスというお方は、自分たちを正しいとしている、実は罪びとのパリサイ人たちのことも招いておられる救い主であることを忘れてはならないと思います。

私たちが医者のもとに行くのは、自分に病気があることを認めた人や、そのための治療や予防処置を必要と認めているからです。それは幸いなことです。不幸なことは、自分に深刻な病気があるのに、それに気が付かず、また、認めようとしないで、勝手に大丈夫、健康だと思い込んでいる場合です。だれもが、魂の医者イエスを必要としている罪びとであることを認めつつ、主イエスの許に行き、そこに留まって悔い改めの祈りをささげ、罪ゆるされ、聖なる者とされて、喜びと感謝をこめて、主に仕える者とされたいと願います。

教会とは、自らの罪、弱さ、足りなさを正直に認め、それに気づき、だからこそ、私には救い主イエスが、主イエスが必要なのだと、自覚した人々の集まる場所です。それは、地上の病院、医院と似ていると言えます。自分の問題や課題、罪に気づき、それを自分の力だけでは決して解決することができないことを認め、主イエスに心からの助けを求めます。教会は、そのような者たちが、主イエスによって招かれてできる群れのことです。主イエスのお取り扱いを必要としない人々の集まりではありません、キリストの真実な愛と憐れみを祈り求めながら、弱い者たちが支え合い、足りないところを補い合いながら、天の故郷をめざし、励まし合いながら地上の旅を続けていく所です。この天国を目指す旅に、おひとりでも多くの方々が加わってくださることを心から願いますし、その旅を続ける群れとしての札幌教会でありたいと思い、祈ります。


# by nazach | 2023-10-22 11:36

2023年10月15日 礼拝動画

10月15日礼拝動画を配信いたしました。

「赦しの奇跡-あなたの罪は赦された」

■聖書 ルカの福音書 5章17~26節

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https://youtube.com/live/rntWiQfq0oE?feature=share

 ここには、あらゆる障害を乗り越えて主イエスのもとに、救いと祝福を求めてやって来た人々の一途な信仰がありました。多くの人々が主イエスの許に押し寄せていましたが、中風の人と彼を担いで来た人々は、大群衆にめげず、さらに常識では考えられないほどの方法で主イエスの許に来ました。真の信仰は、ただイエス・キリストだけを見つめます。助けたいと思う人と、それを助け、救うことのできる主イエスを見つめ、その御声に聴き従います。「友よ、あなたの罪は赦されています。」この言葉は、これ以上は何もする必要がないことを示す完了形で語られています。主イエスはこのとき、もうあなたの罪は赦されてあり、もはやここにはありませんと言われたのです。その言葉は、私たちの罪のために十字架にお付きになられたお方だけが語ることのできる権威ある御言葉です。それは、時を経て、今も、私たちのために語られる大切な主の御言葉です。そして、神の赦しの業は、その恵みに与る人の罪を赦すことだけに留まらず、私たちが互いに許しあい、愛し合うという奇跡を生み出していきます。私たちは神の赦しを受け入れることができるときに、本当の意味で、人を赦すことができるからです。今月の三浦綾子カレンダーの言葉に、「弱い同士なんだから、人も許せるし、赦してもらわなければならないということ。これが一番大切だと思うのよ」とあります。最後に、エペソ4章32節を読んで、本日の説教を終わります。「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」


# by nazach | 2023-10-15 11:44

札幌ナザレン教会 牧師 古川修二のメッセージ


by nazach