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希望のことば ー 札幌ナザレン教会講壇から ー

深みに漕ぎ出す

■聖書の箇所 ルカ5章1~11節

 私たちの人生には、様々な出来事が起こりますし、時には同じような体験を何度かすることもあります。大切なことはその体験を通して、何をどのように学んでいくか、それがどのようにその人を形作っていくかということだと思います。自らの信仰を深め、愛と希望を深めていく、そのような良き体験であり、御言葉の学びでありたいと思います。
 ペテロはその人生において、再度ガリラヤ湖で主イエスによる不思議な大漁を経験致しました。そして、そのことを通して、彼は自らの弱さや、限界を知らされるとともに、それを支え満たしてくださる圧倒的な主イエスの恵みの力を体験します。そして、さらに深く主に信頼して聴き従う者に変えられ、御旨にかなって成長していくのです。

 歌手のダイアナ・ロスさんが歌う歌の中に、valley mountain there is a fountain 「谷あり、山あり、泉あり」というフレーズがありますが、人生の中に、くめども決して尽きることのない「永遠の泉」を、それぞれの人生の中に見出し、それにより頼んでいるでしょうか。

 人生の危機の度に、信仰を捨て、信仰の対象を変える人がいます。大切なことは、そこで人生の主である真の神と出会っているか、正しく出会っているか、主にある真実な交わりを築いるかどうかだと思います。
 この時、イエス様に促されたシモン・ペテロが出て行ったのは、同じ湖でした。今までと全く同じような漁をしたに違いありません。何ら変わることはなかったのです。しかし、彼らはこの時、主の御言葉にしっかりと寄り頼みつつ、行動をしたのです。その結果、心が震えるような素晴らしい体験をしました。
 時には、全く環境を変える必要があるかもしれません。でも、今私たちがやっていることを、今与えられている務めを、主の言葉を信じて、心を込めて行う。そのことを通して、生きて働いておられる主と出会わせていただく。それが、最も大事なことではないでしょうか。私たちも、御言葉に聴き従って、一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

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# by nazach | 2018-02-11 15:03

主イエスの栄光

■聖書の箇所 ヨハネ2章1~11節

 主イエスは結婚を祝福されるお方です。イエス様がこのような喜びの席に、喜ぶ人たちと共におられたということに、注目したいと思います。イエス様の御生涯は、人間の様々な苦しみや悲しみに寄り添い、共に歩んでくださる御生涯でした。主イエスは悲しみの人で悩みを知っておられたと言われています。しかし、主は、ただ単にそういうお方であるだけではなく、私たちの喜びの時にも共にいてくださるお方であるということを、カナの婚礼は教えています。

 しかし、その主イエスが出席しておられた婚礼という喜びの席で、困ったことが起きました。婚礼を支え、盛り上げるために必要な葡萄酒が途中で無くなるという出来事です。
 主イエスの母マリアは、この婚礼の席を裏方で支える重要な役目を担っていたようです。それで、この事態に気づいた彼女は、それをなんとかしようとして、主イエスに向かって、「葡萄酒がありません」と告げたのでした。私たちはこのマリアの言葉の中に、神であるお方への素直な祈りを見出したいと思います。それは、私たちの現状をありのままに主に告げる率直な祈りです。ある人は、このマリアの言葉こそ、神に対しての人間の本当の祈りの言葉であると言っています。

 この時のマリアの率直な祈りはいったん退けられます。すぐには、聴かれないのです。しかし、私たちが注目したいのは、その後の母マリアの態度です。少しも悪びれることなく、彼女は手伝いの者たちに告げます。「あの方が言われることは、何でもしてください」と。
 ロシアの作家ドストエフスキーは、この時、母と子の間に、微笑が交わされていたと想像しますが、優れた洞察だと思います。私たちも主イエスに対して、そのような深い信頼をもって、祈り続け、聴き続け、喜んで従って行きたいと思います。厳しい人生に行き詰ることがあっても、さらなる恵みを信じ、期待し、主を待ち望む者でありたいと思います。「
見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」

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# by nazach | 2018-02-04 15:01

最初の弟子たち

■聖書の箇所 ヨハネ1章35~42節

 小さな一歩、しかし、その一歩が人生を変えることがあります。歴史を動かすような大きな出来事に連なることさえあるのです。この日の出会いがシモンの人生を変えただけではなく、世界の歴史を動かす出来事となったのでした。
 どうして、そのようなことが起こったのでしょうか。主イエスに見つめていただいた。見つめ続けていただいたからです。イエス様は、初めてシモンに声をかける前に、彼に目を注がれました。42節。このギリシャ語にはじっと見つめると意味が込められていました。主イエスはシモンを見つめて言われたのです。そのことが大切です。
 その時、決定的なことが起こりました。私たちは主に見つめられ、呼びかけられて初めて自分自身が見えるようになる、自分がわかるようになるのではないでしょうか。この時、シモンが体験したことは、この主イエスに見つめていただくことでした。ありのままの自分を、主イエスの前にさらして、主の御言葉とお取り扱いに、その後の彼の人生を任せたのです。

 私は、このとき主イエスがシモンに語られた言葉を大事にしてきました。なぜなら、そこに、私の希望があると信じたからです。主イエスはシモンに目を留めて言われます。「あなたは、ヨハネの子、シモンである」とは、シモンのあるがままの姿をそのままに言い表した言葉です。彼の弱さも、もろさも、欠点もそのままにそこにありました。
 しかし、そのシモンを主イエスは、「ペテロと呼ぶことにする」と言うのです。ペテロとは「岩」という意味です。波に揺れ動く頼りない人生ではなく、しっかりとした人生の土台を持ち、豊かな実を結ぶ人生へと彼を導くというのです。主イエスを信じるすべての人が、ペテロでなくてはなりません。失われた人々を訪ね歩かれた主です。彼の下にやってくる者たちに、どうしてご自身を表さないことがあるでしょうか。主は絶えず御声をかけ、豊かな交わりと、導きと、お取り扱いを願っておられます。
「必ずや、祝福を受け、それを人々に受け継がせる豊かな生涯とします」と、優しく、力強く主は語ってくださるのです。

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# by nazach | 2018-01-28 14:59

■聖書の箇所 マタイ4章1~4節

 聖書は、「人間は、パンなどの物質によって生きるのではない。もっと霊的なもの、精神的なものによって生かされるのだ」などとは言いません。神はパンを与えてくださるお方です。私たちの飢えを知っておられるお方です。そのパンを与えながら、しかし、あなたがたはわたしの言葉によって、より良く生きる者になるのだと言われるのです。
 神の言葉によって生きるということは、パンなど食べなくても聖書を読んでいればそれでおなかがいっぱいになるということではない。神の言葉を聞いて生きるということは、神様の言葉を聞き、神様に導かれて生き、神様に感謝の言葉で答えるということです。「神様、ありがとうございます。これらのものはすべてあなたが与えてくださったものです。」と、神に感謝して生きることです。

 テモテへの第一の手紙には、感謝ということについて、次のような言葉が記されています。「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神の言葉と祈りによって、聖なるものとされるからです。」英国のある聖書学者が、この御言葉について語った言葉の中で、次のように語っています。「自分はこの聖書の言葉を読んでつくづく反省した。三度食前の祈りをどんなに形式的にいい加減にしていたことか。食事のたびにする感謝の祈りが、どんなに素晴らしいものであるか改めてよくわかった」と。

 神様は、私たちのことを絶えず、こころにかけて養い、導かれる愛のお方です。いかなる苦しみ、悲しみがあっても、ついにはわたしたちを幸せにするために私たちを導き、支え、日々養ってくださるお方です。「疲れし時に助け、御手にすがるわれを、常に導き給え、御国に入る日まで」(新聖歌349番より)。ですから、この主にあって与えられた一日一日を、一つ一つの出来事をいとおしみつつ大切にして生きていきたいと思います。
「今という時が、二度と帰らぬことを知って生きることはすばらしい。この二度と帰らぬ毎日の中で、私たちは生きたしるしに、何を刻み、何を記していることだろう」(三浦綾子)

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# by nazach | 2018-01-21 14:55

■聖書の箇所 マタイ3章1~17節

 洗礼を受けた主イエスに天からの声がありました。17節「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」マルコやルカの福音書では、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と記されてありますが、マタイは、マルコやルカの福音書とは異なって、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と記しました。マタイは、主イエスご自身への神の呼びかけという意図を超えて、「このような者こそ、わたしの喜ぶわたしの愛する子なのだ」と、そこに居合わせた人々にも、そして私たちにも教えているのです。

 ここに、主イエスが、天の神に愛され、喜ばれる、私たちのための救い主、十字架にかかり、よみがえってくださる唯一の真の救い主であるという明確な主張があります。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」これが、生涯を通して主イエスを支え続けた祝福でした。そして、どんなことが起こっても、それが称賛であれ、非難であれ、主イエスはご自分に与えられた神の祝福を離さず、ご自分が神に深く愛された存在であることを常に思い起こしておられたのでした。
 主イエスの全生涯は、すべての出来事のただなかで、この神に愛されている者、御心にかなう者とされているという事実を見失うことのなかった御生涯でした。そして、私たちも、また、主イエスのゆえに、その御生涯のゆえに、十字架と復活の業のゆえに、決して、神に見捨てられることのない祝福された人生に招き入れられたのだと確信するのです。

 私たちには、欠けたところがたくさんあります。それを私たちは正直に認めます。しかし、そのような私たちのために、主イエスが受洗をされ、十字架にかかり、復活して、私たちの信仰を確かなものとしてくださるばかりか、神の家族として教会を備え、さらに優れた天の都を備えてくださっていることを覚え、感謝しましょう。そして私たちの神は、主イエスのあがないのゆえに、私たちを恥とはされないお方であることを喜び、感謝し、主の御名を崇めましょう。

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# by nazach | 2018-01-14 14:53