幼な子のようになる

■聖書の箇所 マタイ18章1~5節    

 背伸びをしてでも一番になろうとしていた弟子たちに対し、主イエスは身を低くしなさい。真に偉い人たちは、謙遜で謙虚な人であると語られました。古代教会の指導者アウグスチヌスは、キリスト者として最も大切な品性はと問われた時、それは謙遜と答え、第二も第三も謙遜と答えたと言われます、それ以外のすべての麗しい品性は、謙遜という土壌に育ち、花を咲かせ、実をつけるからです。
 幼な子には、我がままな面もあります。しかし、子どもは受け入れの名手であり、私たち大人にとって謙遜と素直さの鏡であり、主イエスが最も愛された神の国のお手本となりうる存在です。そうした幼な子の心を持った人、神の国にふさわしい幼な子、そういう雰囲気を漂わせる人に出会うことがあります。そのような人は、何気ない言葉や行動の中で、それを感じさせるのです。この人と一緒にいると天国の香りがする、この人の周りには、天国が出来ている、そのような麗しい雰囲気を持った人が確かにおられ、そうした幸いな出会いがあるのです。どうしたらそうした雰囲気が醸しだされるのでしょうか。御言葉の約束をあるがまま、そのままに信じ、何時も喜び、感謝し、絶えず祈り続ける生活の中からしか産みだされないと思います。主イエスは言われます。「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」と。低くするというのは、自分が偉くない、大きくないということをわきまえているということです。

 ある人は、幼な子のようになると言うことは、一言で言えば、神を父と呼ぶことが出来るようになることだと語りました。そして、主の御名を呼び求め、神を父と呼ぶ人は主の救いと祝福に与る者とされます。その時、自分自身がどんなに小さなものであるかを正直に認めるようになります。そしてそれは同時に、自分がどんなに神様に重んじられ、守られ、愛されているかということを心底分からせていただく幸せな瞬間でもあります。神に愛された者の一人として、自分に与えられている貴い使命に深く気づかされるときでもあるのです。

[PR]
# by nazach | 2018-06-10 18:12

夢見る人ヨセフ

■聖書の箇所 創世記37章1~20節


 2017年のナザレン教団年会の後、当時のナザレンアジア太平洋地域の監督であったグレイブス監督は私に、「日本にリバイバルが、信仰の復興の時が来ることを確信している、それは高齢者たちが本気で祈り、若者たちが信仰をもって立ち上がる時だ」と語りました。そして、私は思います。牧師たちと信徒たちが心を合わせて、主にある夢を抱きつつそれぞれの役割を果たしつつ主にあって立ちあがっていく時に、主はこの教団を、教会を、一人一人を豊かに祝福し、主の栄光を現わす者として用いてくださるということを。

それぞれが、役割を果たしつつ、主にある美しい夢を見、何よりも主の救いと聖化の御業が行われることを強く願いつつ、歩ませていただきたいと思います。


 神が働く時、反対する人々もいます。けれども主なる神はそのすべてを働かせて益としてくださるお方です。ヨセフの兄弟たちは、彼を殺そうとたくらんだ時、互いに話し合っていました。「見ろ、あの夢見る者がやってきた。彼の夢がどうなるかを見ようではないか」と。ヨセフが見た夢、彼が見続けた夢は清くされ、やがて成長し、すべての人々に希望を与え、勇気を与える夢になって行きます。

私は、このヨセフの兄弟たちが語った言葉が記されたプレートを米国で目撃したことがあります。黒人の公民権だけではなく、すべての人の人権のために献身し、「私には夢がある。I have a dream」という有名な言葉を語り、銃弾にたおれた米国のマルティン・ルーサー・キング牧師の終焉の地に立てられプレートに記された言葉でした。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語り続け、世界の人々を励まし続けています。私たちも主にあって夢を見、それぞれの役割を果たしつつその夢を見続ける時、主は必ず、あなたを用いて素晴らしい御業を行ってくださいます。

 主が時を越え、様々な困難を越え、すべてに働いて益としてくださることを信じつつ、説教を終わらせていただきます。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)


[PR]
# by nazach | 2018-06-03 18:09

神との格闘

■聖書の箇所 創世記31章3節、創世記32章22~32節


 神の前に一人となったヤコブに神の使いが、「夜明けまで彼と格闘した」と記されています。この格闘が夜明けまで続いたということは、その激しさを物語っていました。それは腿の関節が外れてしまうほどの激しさでした。世が明けて去っていくその人に対してヤコブは、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と迫ります。

この神の祝福を求めるヤコブの必死さに私たちは見倣う必要があります。それは、同時に神ご自身が、ヤコブと共にいて彼を守り、決して見捨てず、約束したことを必ず行なってくださることを約束しておられるということです。ヤボクの渡しのヤコブの必死の祈りは、ヤコブの祈りであると共に、いつも共にいてヤコブを守り、助け、最後まで導き祝福し、約束したことを必ず果たしてくださるという神ご自身の祈りでもあったのです。そのことを深く知らされて、その神様ご自身の必死の祈りに支えられながら、神の祝福を祈り求めるということが大事なことです。


 そして、このとき、主なる神がヤコブに問いかけた言葉が重要です。主なる神は祝福してくださいと求めるヤコブに対して、「あなたの名はなんと言いますか」と聞いています。神はこんな単純な質問をヤコブに投げかけました。全知全能の神が、彼の名前を知らない訳がありません。

神は、ヤコブのすべてを知っておられます。その過去も、将来も、その行動も、その心の中の思いまでも、神はすべてを知っておられるのですが、その神が「あなたの名はなんと言いますか」と尋ねたのです。


 もともと、ヤコブという名は、かかとであり、そのかかとをつかむ、押しのける者という意味の名前でした。彼は改めてここで、自分自身が今まで、人を押しのける者、兄を欺き、20年もそのことを未解決のままにしていたことを思い起こしつつ、それを正直に認めることになりました。

「ヤコブです」という言葉の中には、そうしたことを正直に認めて告白した姿が示されていたのです。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」(ヤコブの手紙4章10節)


[PR]
# by nazach | 2018-05-27 18:07

信頼して生きる

■聖書の箇所 出エジプト20章12節、詩編37篇3、5節


 私たちの主イエスが私たちに願っておられることは、主を信じる者たちが、その人生において、何らかの成功を収めるということではなく、それぞれの人生においてその人らしい実を結ぶ、それも豊かな美しい実を結ぶということです。ヨハネの福音書15章8節に、「あなたがたが多くの実を結ぶことによって、わたしの父は栄光をお受けになります」とありますように、神様の栄光を現わす人生こそが、実を結ぶ豊かな人生です。


 女性会有志の皆様に、「母は涙乾くまなく祈ると知らずや」と、賛美していただきましたが、私たちが今日あるのは、母の祈りがあるからではないでしょうか。私は、キリスト者になる前の母が祈ってくれた、涙の祈りを有難く思っています。その母が、キリストを信じるようになり祈り続けてくれたことを、深く感謝しています。私たちは、多くの方々の祈りに支えられて生かされています。そして、何よりも主イエスが祈ってくださっています。

そのとき、決定的なことが起こります。私たちは見つめられ、呼びかけられて初めて自分自身が見える。本来の自分がわかるということがあります。シモン・ペテロが体験したことは、イエス様に見つめていただいたということです。

ありのままの自分を、イエス様の前に置き、神を信じ、イエス様のお言葉と、導きにその後の彼の人生をお任せしたのです。お委ねしたのです。それこそが、人生において、最も大切なことです。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる」からです。


 イエス様は、私たちが主に立ち返り、主にとどまって実を豊かに結ぶ者となることを願い、祈り続けてくださっています。すべての人が、主の許に来て、主にあって魂の救いと平安を得ることを、主に信頼して生きることを、そして、主が成し遂げてくださる幸いな人生に導かれることを願っておられます。その主にある一歩一歩が後の日に大きな実りをもたらすようになり、神様の栄光が、すばらしさが鮮やかにあらわされますように!


[PR]
# by nazach | 2018-05-13 18:05

神の家、天の門

■聖書の箇所 創世記28章10~22節

 ヤコブは夢を見ます。それは、一つのはしごが、地に向けて立てられ、しかも、その上の端が天に届いており、神の使いが、そのはしごをのぼりくだりしているという夢でした。そしてヤコブは、主が、彼のそばに立って言われた声を聴くのです。「見よ、主がその上に立って、こう言われた。『わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。』」その姿はみ使いたち、天使たちではなく、主ご自身の姿でした。

 こうして、ヤコブは、「わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」という神の約束の言葉を聴くことになります。主なる神はこの時、「共にいる」ということと、あなたに約束したことを果たすまであなたを決して見捨てないと約束してくださったのでした。私たちが地上で行うことは不完全であり、限界があります。しかし、いつも共にいてくださる主に信頼するときに、主に信頼して歩み続けるときに、私たちは主ご自身が成し遂げてくださるという恵みの業を観させていただき、主にあって完成の時を待ち望むことができるのです。

 ヤコブは、この後眠りから覚めて、「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった」と言いますが、それは、二重の目覚めでした。夜の眠りからの目覚めであり、同時にそれまで眠っていた霊的な信仰的な目覚めの時でもありました。今や、信仰の目覚めの時が来ました。その信仰はまだ、条件付きの不十分な信仰でしたが、これから成長していく信仰でした。そしてヤコブは、その場所を、ベテル「神の家」と呼びました。そこは、天の門であり、はしごがあり、そのはしごの頂は、天に届いているのです。イスラエルの民は、この出来事の中に、彼らを救う福音を見出していました。いうまでもなく、このベテルこそ、私たちにとっての教会です

[PR]
# by nazach | 2018-05-06 18:04

札幌ナザレン教会 牧師 古川修二のメッセージ


by nazach
プロフィールを見る
画像一覧