神は心をごらんになる

■聖書の箇所 サムエル記第一16章1~13節

 エッサイとその7人の息子たちがやって来た時、サムエルは長男のエリアブを見て、「きっと、この者が、主なる神に選ばれる人だ」と思いました。ところが主はそれを否定し、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われました。優れた霊的指導者であるサムエルでさえも、間違った判断をするところでした。本当に、人はうわべの印象にとらわれやすい存在です。
 続いて、アビナダム、シャンマと7人の息子たちをサムエルの前に進ませましたが、主なる神がお選びになる者ではありませんでした。最後に連れて来られたのが、羊の番をしていたダビデでした。兄弟の中でも末の子の第八番目、年齢から見ても10代半ばほどと思われる少年ダビデ、主の選びには、程遠いと、父エッサイも考えたそのダビデを、主なる神は大切な働きのために選んでいたのでした。主は言われます。12節後半です。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ」と。

 ところで、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と述べられていましたが、聖書は、その時のダビデの心については一切触れてはおらず、ただ、「彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった」と述べているだけです。しかし、「血色が良く」とは、心身の健康を、「目が美しく」も「からだの明かりは目だ」と言われているように、それは心身の健全さを、「姿も立派」とは、心と身体のバランスが良くとれていた少年であったことを示していました。彼は何よりも、羊を飼う心優しい少年であり、後に歌った詩編23篇のように、常に主なる神を「私の羊飼い」として愛し、主に絶えずより頼む心の持ち主でした。容貌の真の美しさと輝きは、内なる心から自然と滲み出てくるものであったのです。

 サムエルでさえ、人をうわべで見ました。「40を過ぎたら人は自分の顔に責任を持て」と語ったリンカーンが、本当に言いたかったのは、顔そのものではなく、顔に現れる表情や雰囲気であり、その心でした。心の美しさ、豊かさが顔に、その目に出るからです。
「肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です」(Ⅰテモテ4章8節)

# by nazach | 2019-01-27 14:45

聴き従う祝福

■聖書の箇所 Ⅰサムエル13章1~15節

 イザヤ書には、主なる神を信じる者たちへの重要な御言葉が記されています。
「あなたがたは、信じなければ堅く立つことはできない」
「静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」と。
 サウルは、この時の失敗を通して、深く学び、悔い改めへの道に進むべきでしたが、その道を歩むことができませんでした。それどころか、立ち直るチャンスであったかもしれないもう一つのテストにも合格することができませんでした。アマレクとの戦いに際して、サウルとその兵士たちは、神の命令に聴き従うことなく、高価なものを自分たちのものとしたのでした。主への服従は、形だけの服従とは異なり、生ける神との交わりの関係であり、それを無視することは偶像礼拝の罪に匹敵するということでした。

 サムエルはサウル王に厳しく語ります。15章22節。「サムエルは言った。『主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』」そして、その言葉はそのまま、私たちへの主の御言葉となります。
 私たちは、こうした言葉から、一体何を学べばよいのでしょうか。サウルを非難するだけだとしたら、弱い人間の立場を糾弾するだけの信仰になってしまいます。私たちはサウルに心からの悲しみを感じつつ、彼の問題点を考え、さらに、先へと進む必要があります。それは、罪を犯さない人は誰もいないということ、そして、神の命令に完全に聴き従うことのできる人も、誰一人いない。ただお一人、私たちの罪のために十字架にかかり、死からよみがえられたお方、主イエス・キリスト以外にはいないということです。ですから、私たちは、主の憐みにすがり、主の許に荷を下ろし、いかなる時にも主に信頼して歩むべきです。

 主イエスは言われます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」と。

# by nazach | 2019-01-20 14:43

心を尽くして

■聖書の箇所 1サムエル10章17~27節、12章18~25節

 サウルがイスラエルの王となるために、三つの手順が取られました。
第一に神からの任命、第二に、サウルが王にふさわしく整えられて、新しい心が与えられ、新しい人に造り替えられたこと、第三に、イスラエル全部族の前でくじが引かれ、サウルが王として選出されたことでした。
 こうして、神がサウルをイスラエルの王として立てられたことを、イスラエルの民全体が知ることとなったのでした。これらのことは、現代でも私たちが主の働きに召されていくときに、必要な過程、プロセスです。つまり、本人と神との関係、次に、本人がその働きにふさわしく整えられ、変えられていき、それを少数の人々が認めること。最後に、そのことが教会全体の確信となり、祈りとなるということです。
 こうして神に心を動かされた勇者たちは、サウルについて行きますが、よこしまな者たちは彼を軽蔑します。しかし、サウルは黙っていました。私たちは、彼が良き資質を持って王としてのスタートを切ったことを知らされます。そして、どこまでもこの霊的で謙遜な姿勢を貫いたならば、サウルの生涯もその彼に守られる人々の生活も幸いなものとなったと思うのですが、実際はそうはなりませんでした。エリもサムエルも、そしてサウルも失敗を重ねました。そのような人の罪と悲しさが、サムエル記の記述から読み取れます。そして、人にはなぜ、神の憐みによる救いが必要なのかが、静かに語られるのです。

 20節「サムエルは民に言った。『恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。』
24節「ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。」と。この御言葉こそが、サウルに、イスラエルの民に、そして聖書を読むすべての人々に、しっかりと語り告げられる必要があったのでした。
「ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。」御言葉の力を信じ、御言葉を語り、心を尽くして、主と主の御言葉に聴き従う人生を最後まで、歩ませていただきたいと思います。

# by nazach | 2019-01-13 14:40

神が聞かれる

■聖書の箇所 サムエル記第一3章

 サムエルという名前は、「神の名」とも、「神が聞かれる」という意味だとも言われますが、「神が聞かれる」という意味に心惹かれます。主は、私たちの祈りに耳を傾けていてくださり、私たちのことを心にかけてくださる愛のお方であるからです。
 主がサムエルの祈りを聴き、彼に語りかけられた内容は、衝撃的なものでした。エリは以前から息子たちの悪行に心を悩ませておりましたが、息子たちは父の言うことを聞こうとはしなかったのです。ここに、信仰者の家庭にも起こりうる残念な事態が記されています。私たちは、信仰を家庭の中で継承していくということの大切さを覚え、主の憐みと導きを真剣に祈り求めなければなりません。そして、信仰が子どもたち、孫たちに受け継がれているならば、そのことを何よりも喜び、感謝し、主の御名をあがめましょう。さらに他の家庭にもそうした恵みがもたらされるように、祈りたいと思います。

 ホレンコ1月号の中に、ルーテル教会江口武憲牧師の深い洞察と示唆に富んだ言葉が紹介されていました。
「困難な事態、あるいは不幸な状態、それを解決し、救済するのに、いくつかの方法がるように思われることがある。しかし、解決の方法はいくつもあるわけではない。一つだけである。言葉の最も深い意味において、それを自分の責任として背負うことだけである。その事態を自分の責任として痛切に反省し、自分の課題として背負おうとする。それだけである。そこからおのずと神に祈る姿勢も生まれて来る。生きる道も開けてくる。」
主イエスは言われます。「日々自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」。

 エリのように、それがどんなに自分に不利な言葉でも、「その方は主だ」と真に告白できる人は幸いな人です。その告白が、願わくは、晩年になってからではなく、日々の告白となるなら、その積み重ねである一生は、真に祝福されたものとなります。今日という日は、私たちに残された日々の一番新しい日です。このあなたの若き日に、造り主を覚え、「我が主よ、我が神よ」と告白し、新年を主の御言葉に聴き従って歩みだすことができますように、祈ります。

# by nazach | 2019-01-06 14:38

主は私の羊飼い

■聖書の箇所 詩編23篇

 この詩で、最初に注目したいことは、作者であるダビデ王が、神を「私の羊飼い」と告白していることです。
ダビデは、もとは羊飼いであり、自分の羊を救い出すために猛獣と一人で戦うほどに勇敢で、心優しい羊飼いでした。ところが、その彼がここでは、自分をひ弱で、愚かな一匹の羊にたとえています。羊には、賢く、力強い羊飼いが必要です。そのことを良く知っていたダビデは、イスラエルの歴史上、最も尊敬される王であるのに、自分を愚かな羊に例えて、羊飼いである神様がおられなければ、自分は生きていくことができない存在であることを、正直に告白したのです。ここに、人生の大切な真理があります。それは、経済的に、肉体的に恵まれ、才能に恵まれていても、行き詰まる時がある。人生には悩み苦しみがある。しかし、主が私の羊飼いである限り、窮することはない。途方にくれても、行き詰まることはない。必ず光がある。希望がある。生きてさえいれば希望はある。生命ある限り、望みは絶えないという真理です。

 ダビデは、様々な出来事を思い起こしつつ、「私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、わたしを追って来るでしょう」と語りました。人生には楽しみばかりではなく、災いもあります。しかし、すべてを知ってくださる主が共におられ、その主から私たちが離れることなく、主と共に歩いて行こうとする限り、ダビデと共に私たちも心の奥底から告白することができます。
 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう」と。
これは、羊飼いに導かれて、どこまでも彼の後に従っていく羊の群れを、羊飼いの犬、牧羊犬たちが後から追いかけて、羊の群れを守りながら前に進ませていく様子を描いていると思われます。
 人生の様々な災いに取り囲まれ、そうした恐れに駆り立てられながらとぼとぼと歩む人生ではなく、いかなる時にも、主なる神様に信頼して、豊かな恵み、慈愛に取り囲まれて生きる。神の真実な愛がどこまでも追いかけて来る幸いな生活です。

# by nazach | 2018-12-30 14:35

札幌ナザレン教会 牧師 古川修二のメッセージ


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