1月22日礼拝動画を配信いたしました。
「今、ここに生きる」
■聖書 エステル記 4章 1~17節
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「私は、死ななければならないのでしたら死にます。」このエステル記のクライマックスとも言える言葉は、決して軽々しく語ってはならない言葉です。命こそが宝です。そして、いのちは主なる神に属するものであることを正しく、深く知る者だけが、覚悟して語る言葉です。それは主なる神と神の御心への深い信頼であり、完全なる明け渡しの言葉です。エステルは、自分がそのときに置かれた所で、今、自分にできることを、犠牲を払って誠実に行おうとしたのです。主イエスは、弟子たちに対して、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために命を失う者はそれを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら何の益があるでしょうか」(ルカ9章23、24節)と、言われました。この御言葉は、日本に最初にキリストの福音を伝えたフランシスコ・ザビエルの心をとらえ、突き動かし、彼が生きた世界から、東の果ての日本にまでキリストの愛の福音を持ち運ぶ原動力になった御言葉でした。先週、私は故郷平戸島に帰り、ザビエルが上陸したまさにその場所で、その志と宣教の働きを思いました。その御言葉と御旨に彼が聞き従わなかったら、あの時、キリストの福音は日本に伝えられることはありませんでした。そして今、私たちがここでキリストの福音に与り、礼拝をささげることができるために、喜んで愛の犠牲を払ってくださった方々が、それぞれの時代で、主に選ばれ、その選びを感謝して受けて、豊かに用いられてその役割を果たしてくださいました。そのことを覚えて、感謝します。そして今、改めて、私たちも主イエス・キリストの御言葉をお聞きし、「今、ここで」主と主の御旨に喜びをもって聴き従いと思います。主イエスは言われます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」久保木勁先生は、引退記念礼拝で「それが、あなたがあなたらしく、本当に生きるために、必要なことなのです」と、語られました。