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主イエスを信じる

■聖書の箇所 使徒16章25~34節


 パウロとシラスは、苦しみの中で祈り、神を賛美していました。その賛美は、囚人たちの心を捉えました。この後、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、扉が全部あいて、くさりが解けてしまうという事件が起こります。それは、祈りの答えであり、主の奇跡の業でした。しかし、その大地を揺るがす奇跡以上の奇跡がその後に起こります。それが、獄舎の管理を任されていた看守とその家族の救いでした。ピリピの獄舎の看守は、真夜中に希望の歌を歌っていたパウロとシラスの姿の中に、人生の海の嵐のただ中にあっても、動かされることのない平安と喜びを見て、その秘訣を知りたいと思ったのだと思います。

 パウロらには、キリストにある何かがあったのです。彼はこの時に、人類を代表する偉大な質問をしました。「先生がた、救われるためには、何をしたらよいのでしょうか」と。答えは単純でした。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
 原文を忠実に訳せば、「キリストの上に、信じよ」という意味になります。それは、私たちには、人生の最終的な土台を置くことのできるお方が与えられている。そのお方こそ、すべての人々の救い主であり、人生の主であられる。このお方に人生を委ね、主を信頼して生きて行きなさいというメッセージです。
 私たちは、主イエスを信じます。キリストのことばを信じます。「決して滅びることはありません」と言われる主イエス・キリストのことばを信じます。讃美歌「慈しみ深き」の歌詞のように、慈しみ深きイエスのもとに、人生のすべての重荷を下ろさせていただきましょう。

# by nazach | 2019-08-18 18:59

神の賜物

■聖書の箇所 使徒15章1~21節


 使徒パウロは、主の救いについて、「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」と語りました。
 主イエスを信じるだけでは人は救われない。その信仰に加えて、割礼を受け、モーセの律法を守るべきだと主張したのは、ユダヤ教のパリサイ派からキリスト者になった人々でした。彼らは、モーセの律法に従おうと懸命に努力をしていた人々でした。しかし、自分が真面目に努力していると思った点で誤り、それが思い上がりとなっていたのです。この点で彼らはパウロとは異なっていました。パウロは、徹底的に律法に従おうとし、それを完全に行うことができない人間の限界を正直に認め、主イエスの十字架の贖いの業を信じ、信仰による救いを感謝して受け入れた人であったからです。この点が明らかになれば、彼らも値なしの罪の赦しの恵みに目を開かれるはずでしたが、それを悟ることはできませんでした。そのことは、現代に生きるキリスト者である私たちにとって、大きな警告を与えるものであると思います。

 私たちは、私たちの罪のために十字架に付けられ、私たちが完全に守ることのできなかった律法を完成するために死からよみがえられた主イエスを信じているのでしょうか、それとも十字架と復活を抜きにしたキリストを信じているのでしょうか。私たちのためにこの世に来られ、私のために十字架にかかり、死からよみがえり、今も生きてとりなしてくださる主イエスを信じて生きる者でありたいと思います。

# by nazach | 2019-08-11 15:58

神の宣教

■聖書の箇所 使徒11章19~26節、13章1~3節

 福音は、人を通して伝えられていきます。あなたを通してでなくては、伝わることのない福音があるのではないでしょうか。この夏、皆様がお会いする方々に、神の言葉と、教会の交わりの中から与えられた神の恵みが伝えられ、一人でも多くの人が福音に触れ、キリストの愛に包まれることができますようにと願います。そうしたことが積み重ねられながら、キリストの福音が根付くことが、困難な日本社会が耕され、宣教が前進するのだと信じます。本日の説教題を「神の宣教」としましたが、宣教は神のものです。神ご自身が先立って下さいます。

 13章1節に、「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた」と記されています。そうした人々が、このアンティオキア教会の指導者として必要であったということです。そのように、色々な経歴を持つ人々が、アンティオキアの教会に呼び集められて、指導者としてこれから始まる世界宣教を担う教会の基礎を築いたのでした。

 2節には、「彼らが主を礼拝し、断食していると」とございます。ここに、最も大切なことが記されています。それは、主イエスを礼拝するということです。こうして、主イエスを熱心に礼拝した彼らは、もはやそのままではありませんでした。礼拝を通して神様から受けた豊かな恵みを、彼らはそのままにはしなかったのです。アンティオキアの教会は、その指導者たちの中から、バルナバとサウロを宣教者、伝道者として世界に送り出したのでした。こうして、キリスト教会は、キリストの救いと恵みを受け続けるだけで止まらずに、その恵みをさらに多くの人々と共に分かち合うようにする、神の宣教に生きる教会として絶えず前進を続けたのです。それが教会本来の姿です。こうして、日本にも、キリストの福音が伝えられました。平和主日でもある本日、私たちは今の日本に平和と信教の自由が与えられていることの恵みを感謝し、そのために命をささげた方々を覚えつつ、信仰と希望と愛に生きる者でありたいと思います。

# by nazach | 2019-08-04 15:56

教会を建て上げるには

■聖書の箇所Ⅰコリント3:10-13、Ⅰテサロニケ1:2-3

   メッセージ 久保木 勁師

 25年前の新会堂建築に際し、会堂だけでなく、「教会を建て上げるには、何が必要か」を深く考えさせられた。改めて、その事を3つのポイントに絞って語ろう。Ⅰ永続性の必要、Ⅱ具体性の必要、Ⅲ悔い改めの必要である。

 Ⅰ コリント教会の創立者パウロに、教会のその後について、気がかりな事が二つあった。土台と建材についてである。パウロが据えた土台だけを土台とし、火(=試練・審きのシンボル)で試されても残る「金・銀・宝石」を用いて建て上げるようにと促されている。その土台とは、「昨日も今日も、とこしえに変わることがないイエス・キリスト」(ヘブル13の8)である。ところで、その「金・銀・宝石」とは?「いつまでも残るのは、信仰と希望と愛、これら三つです。」(Ⅰコリ13の13)で、明解!教会は、とこしえに変わることのないイエス・キリストのみを土台とし、その上に、いつまでも残る信仰と希望と愛とによって建て上げられていくのである。

 Ⅱ その「信仰と希望と愛」は、パウロがテサロニケ教会に見た「信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」のように、具体性を伴っていなければならない。『信仰の章』と呼ばれるヘブル11章には、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできない」とあって、信仰の具体的な働きが列挙されており、『愛の章』と呼ばれるⅠコリ13章には、愛の具体的な生き方(4-7)が明示されている。7節で、愛が希望と忍耐に結びつけられていることは見逃せない。「愛は諦めない」のである。「絶望とは、何も見えない、分からない状態のことではなく、その先に未来があることを信じられない状態のことである」とは明言である。

 Ⅲ 最後に、黙示録2章にある、エペソ教会への復活の主からのメッセージに耳を傾けよう。その働き、労苦、忍耐を主に認められながらも、「初めの愛から離れてしまった」との指摘を受け、悔い改めが示されているのである。お互いに、初々しい、純粋な、打算のない、ひたむきな愛を取り戻したい。燭台を取り除かれないように。

# by nazach | 2019-07-28 15:54

天からの光

■聖書の箇所 使徒9章1~22節


 人はなかなか変わらない。しかし、変わらない人が、上からの力で変わることができる。そこに希望があります。その実例が、サウロの回心です。サウロはキリスト教に反対する人でした。迫害の先頭に立つ人物だったのです。そのような人が、どのようにして、信じる人に変えられたのでしょうか。そこに、人間的に納得のいくような理由はありません。それは、ただ、天から、上から、神様からの光がそこに照ったとしか、言いようのない、不思議な出来事でした。そして、そうしたことは、現代に生きる私たちがキリストを信じる時に起こりうることであると私は思います。それを深く自覚している、いないは別にして、どんな人にも、神様の導きとしか思えないというような大切で、不思議な出来事がこれまでもあった、そして、これからあるのではないでしょうか。

 「神様は、すべての人々が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」ですから、私たちは、私のような者は、神様の救いと恵みに与ることはできないなどと思ってはならない。また、あの人はとても無理と、あきらめてはならない。キリストを求める熱心な求道者はもちろんのこと、今はまだ、反対している人々も、無視している人々にも、必ず、天からの光が差すことを信じて、その救いを、神の時を忍耐して待ち望む者でありたいと思います。

 英国の説教者であったマーティン・ロイドジョンズは、その著書の中で信仰の確信をもてない人について、次のように述べています。「彼らは自分のことだけを考え続けている。自分の力で自分を変えて善良な者にならなければと考えている。・・・しかし、人が完全無欠の者になることは決してないであろう。落ち度のない人物となった人は、これまでに一人もいない。キリスト教信仰の救いの本質は、キリストこそが完全なお方であり、自分は主イエスの内にあると信じて告白することなのである」と。私たちは弱い。しかし、主イエスは強く、確かなお方です。主イエスは完全なお方です。自らの弱さを認め、上からの御力に信頼して、主にすべてを委ねて生きて行きましょう。そこに、主にある成長があります。

# by nazach | 2019-07-21 15:52

札幌ナザレン教会 牧師 古川修二のメッセージ


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