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わたしをおつかわしください

■聖書の箇所 イザヤ6章1~13節

 主イエスの御復活を祝うイースター礼拝を終え、先週は礼拝において、教会役員の任職式と日曜学校と「こひつじ幼稚園」の教師認証式を行い、その働きのために神の祝福を祈りました。日曜学校は今年度から新しい歩みをしていますが、新たに教師になった方々や、教師に復帰してくださった方もおられて感謝しています。幼稚園では、毎朝、職員がそろって礼拝をしてから一日を始め、礼拝の司会を職員が、自由に順番に行っているのですが、先週は、昨年から新たに職員となった愛美先生が、自ら申し出て、その司会を初めて担当し、賛美歌を選び、定められた聖書と解説を読んでから、ご自分の言葉で祈りを捧げました。天の神さまと呼びかけ、入園してきた子どもたちと、その子らを、助け、支えようとする年中、年長の園児たちの愛とがんばりを喜び、一日一日を子どもたちと共に大切に生きてまいりますので、神さま、お守りください。このお祈りを、イエス様のお名前によって感謝して祈ります。アーメンと祈られました。その真心のこもった祈りに、胸があつくなりました。こひつじ幼稚園は、札幌ナザレン教会と共に歩んでいます。その歩みがさらに祝されて、豊かな福音の実を結んでいきますように、祈り、期待し、お支えくださるように、お願い致します。
お祈りをします。「天の父なる神さま、私たちは、週の歩みを終え、あなたを礼拝するためにここに集まってまいりました。一週間の恵みを感謝するとともに、犯した過ちと罪を十字架の血によって清め、復活の命に生かしてくださり、新しい一週間を希望に満ちて歩み出すことができるようにしてください。教会と幼稚園につながるすべての人々の新しい一週間を祝福してくださいますように、祈ります。この朝ここに集う幸いを心から感謝すると共に、ここに今、来ることのできない方々のことを思わざるをえません。年老いてここに来ることが困難になった者たち、病んでいる者、看病している者に、あなたの慰めと励ましとをお与えください。仕事のために集うことのできない方々にも、あなたの平安と導きを与えてくださいますように。こうしてここに集うものは限られていますが、この町に、あなたを信じていない方々がたくさんいます。私たちが福音を伝えていないからです。どうか、教会の扉を開いて、多くの人々を招きいれることができますように。私たちがここから愛の福音を携えて出で行くことができますように。先週から、私たちはナザレン教団の希望誌のカリキュラムにそって、あなたの御言葉に聴き始めました。全国の教会を覚えてくださり、ナザレンの群れに属するすべての教会が、それぞれの地にあって、地の塩・世の光としての役割を果たし、他の教会と共に、福音宣教の使命を喜んで果たしていくことができるようにしてください。御言葉に養われ、キリストの体である教会をそれぞれの地に、豊かに立て上げていくことができるようにしてください。主よ、今朝もお語りください、私たちは聴き従い、御言葉に生かされて歩みます。主イエスの御名前によって、祈ります。アーメン」 

 さて、今日から、希望誌にそって、旧約聖書の預言書を礼拝で読んでまいりますが、本日の聖書箇所はイザヤ書の6章です。聖書は一冊の本ですが、旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻で合わせて66巻になり、33×9=27と覚えることもできます。これと同じように、イザヤ書も66章あって、聖書の中でもかなり長い書物ですが、この書も大きく二つに分けることができ、一つは1章から39章までの39章、もう一つは40章から66章までの27章、合計66章ということになり、聖書全巻の数と分類に一致します。イザヤ書は、その名前の意味が「主は救いである」というイザヤという人物によって書き記された旧約聖書の預言書の中では最も大きな書物です。主イエスがお生まれになる750年も前に書き記されたものですが、イエス・キリストのことが実に詳しく出てきます。その最も有名な箇所はイザヤ書53章ですが、そこには次のような言葉が記されています。53章4節から6節です。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向って行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置かれた。」主イエスがこの地上にお生まれになられる700年以上前の書物ですが、そこに記されている人物は、十字架におかかりになられたイエス様以外にはいません。さらに、42章2節以下には次のように記されています。「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞こえさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道を示す。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教えを待ち望む。」傷ついた葦、今にも消えそうな灯心ほどに頼りないものはない。しかし、ここに記された人物は、そうしたたよりない存在である人々を、一人ひとり、丁寧に導き、ついに一人残らず救い出してくださるお方だというのです。私たちのために十字架にかかり、死よりよみがえり、復活の命をお与えになられる主イエスのほかに、このお方にふさわしいお方はいません。

 さらに、昨日の教会聖書日課は、イザヤ書43章8節から15節まででしたが、19節には次のような言葉が記されていました。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」と。イザヤ書には、このように、私たちの心を深く慰め、励ます御言葉がたくさん記されています。この機会にせめて一度はイザヤ書全体を読み味わっていただきたいと思います。礼拝では2回に分けて味わう予定です。この偉大な書であるイザヤ書を今週と次週の二回だけで学び、味わうことには無理があるのですが、今週は「イザヤの召命」の記事として良く知られた第6章を皆さんと共に味わいます。

 召命という言葉を、私の手元にある国語辞書で調べますと、「キリスト教で、罪の世界に生きていた者が、神に呼び出されて救われること」と記されていました。ここには、旧約聖書最大の預言者であるイザヤが神殿で経験したいくつかの出来事が記されていますが、その一つ一つが、現代に生きる私たちにとっても大変重要な意味を持つ出来事です。そして、イザヤを罪から救い、さらに神の働きに召し出した神は、現代に生きる私たちにもそのようにしてくださるお方であることをこの箇所を通して読み取ることができたら幸いです。その第一の出来事は、神の栄光の輝きの中で、イザヤが自分自身のありのままの姿を示され、自らの罪を深く自覚させられたということです。本日、詳しく学ぶことはできませんが、これまで、イザヤは、神の民とされたイスラエルの民の罪について深く嘆き悲しみ厳しく語ってまいりました。しかし、彼自身が神さまの栄光の光を受けたときに、その光の中で、彼は自分自身の罪に対して深く嘆き悲しみ「ああ、わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」「わたしは、もうだめだ」と叫ばざるをえなくなっていたのでした。罪深いのは、民だけではなく、この自分もだと深く自覚させられたのです。5節をごらんください。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるのもので、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから。」しかし、第二に、イザヤは、神の赦しの確信を持つことができたのでした。犠牲の動物がささげられていた祭壇から、火で焼かれて燃えさかる炭になったその動物の一片がセラピムという名前の天使によって運ばれて、彼の口に触れたのです。それゆえに、たとえ「汚れた唇の者」であっても、その動物の犠牲のゆえに、神は「あなたの罪は赦された」と、宣言してくださったのでした。そして、その御言葉が、御言葉の宣言が、神の聖さに圧倒され、打ちのめされていたイザヤに許しの確信を与えたのでした。6節と7節をお読みしましょう。「この時セラピムのひとりが、火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、『見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた。』」小林和夫先生によると、ここでいう「祭壇」というのは、キリストの十字架のことです。神殿における壇というのはいけにえが罪のかわりにささげられたところでした。イエスさまの十字架は私たちの罪の身代わりとして死んでくださったところです。祭壇は十字架を示しています。そして、その祭壇の上から、天使が火をもってきてイザヤの唇に触れたというのですが、その火とは神の聖い霊を示しているのです。ここに、主イエスの十字架と復活の出来事から聖霊が地上にくだった聖霊降臨、ペンテコステの出来事の意味が示されているといってもよいと思います。そして、その神の出来事が、一人の人を罪から救い出したばかりか、さらに神の業に召し出したのでした。

 主なる神は、こうして神による許しを経験したイザヤを神の働きに召し出そうとされ、イザヤはその御声を聴きます。8節です。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くであろうか」ここには、父、御子、御霊の三位一体の神が示されているといってよろしいと思います。そして、イザヤはその召し出しに、積極的に応えようとします。その姿勢は、イスラエルの指導者であったモーセやギデオン、預言者の一人であったエレミヤの場合とは対照的な姿でした。それは主イエスがその弟子たちを召し出したときに、彼らが何の抗議もなく主イエスに従ったのと似ているように思います。モーセは、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語ってから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」と語り、エレミヤもまた、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」と答えていたのです。また、ギデオンもそうでした。そのような人々に比べて、イザヤの場合は、主イエスの弟子たちのように、あるいは彼らよりももっと積極的に、神の召しだしに答えているといってよろしいと思います。一体なぜ、このとき、このような積極的な姿勢が生まれたのでしょうか。そこに、イザヤへの神の深いお取り扱いがあった、そして、それは、現代に生きる私たちへの神の取り扱いでもあるということができると思います。

 20世紀を代表する神学者であったカール・バルトは、「私たち人間は神を知ることのできる存在ではない」と言いました。本当に罪に汚れている存在ですから、「聖なる神を見ることができない」それで、「神を知らないということさえも神に知らせていただかなければ分からない存在である」とも彼は言っているのですが、本当にそうだと思います。しかし、そのような私たちに、神を知ることのできる唯一の道筋が、十字架にかかり、よみがえられた主イエスによってもたらされたのでした。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、イエス様だけが、神をあらわした」のです。こうして神は、イザヤに、そして、わたしたちに、神の言葉を人々に告げるために誰をつかさそうかと述べられたのでした。それは驚くべきことでした。しかし、そこに、神の神たる姿が見事に現されているのです。

 希望誌に基づいて、その解説を参考にさせていただきながら今年度の礼拝説教を語らせていただきますが、関谷信生先生は、ここで、次のように述べておられます。「神は『聖い』お方であります。『聖くない』者を受け入れることはなさいません。しかし『聖くない』者を変えることのできるお方です。更には、変えられた者に神の業を担わせえるお方です。そのお方はイザヤに『誰を遣わそうか』と問いかけたわけです。神は、かつて汚れていた者であっても、あるいは神を拒否した者であっても、遣わすことができるお方です。その神の前に立たされているのは、イザヤだけではありません。生きている者すべてが神の前に立たされているのです。その神にどのように、応答するかは、一人ひとりに託されています。」深い慰めと確かな希望とチャレンジに満ちたメッセージです。

 しかし、こうして、立ち上がっていくイザヤに語られた神の言葉は、実に厳しいものでありました。それは、彼の言葉を聴いても受け入れることのない人々の頑固さの宣言であったからです。これに対してイザヤは「主よ、いつまでですか」と問いますが、それは単なる質問というよりも、人々の不信仰と頑迷さは、一体いつまで続くのですかという質問であり、むしろ神への抗議の言葉でした。そして、それは、福音を語り続けても、いつまでもそれを信じ受け入れようとしない人々を前にしての嘆きの言葉でもあると思います。それが、罪ある人間の現実です。先週も、そうした厳しい現実に直面させられました。物事は、なかなか思うようにはいかないものです。そこに厳しい現実があります。しかし、主なる神は、そこに、一つの確かな希望を語っておられるのです。それが、たとえ、木が切り倒されても、その切り株が残るように、聖なる種族がその切り株として残るという言葉でした。

 ナザレン教団の宣教宣言がなされて、それに基づく基礎資料「神の宣教を担う教会として」が発行されましたが、そこに、心に刻むべき言葉が記されています。それは、私たちは、現代日本にあって、「祝福された少数者」として神に召されているという言葉です。いつの時代にあっても、神は、信仰と希望と愛を失うことのない小数の民を残しておられました。そして、その祝福された少数者を通して、神の素晴らしい救いの御業を力強く展開してきたのです。そして今、あなたが、私がその祝福された少数者の群れに、加えていただいているのです。主なる神は、この朝も、あなたに呼びかけておられます。「わたしは誰をつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と勇気を出して、あなたも今、応えてください。
先週も、幾人かの方々からお電話をいただきました。その一つは、「今までは神さまを信じてはいても、イエス様の十字架と復活を見上げてはいませんでした。今、十字架を見上げ、罪を認めて悔い改めます」という正直な言葉、そして、ある方からは、「日曜学校のために、今の自分にもできることを喜んでさせていただきたい」という申し出がありました。そして、今朝の講壇の花も、新たに奉仕を申し出てくださった方の作品です。子ども聖歌隊も、女性会も壮年会も、そして伝道委員会も新たな動きを始めています。確かに今、この教会に、ナザレン教団に、新しい神の業が起ころうとしています。すでに起こっています。その神の偉大な御力に大いに期待して、喜びをもって、主と主の言葉に聴き従ってまいりましょう。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」

お祈りをします。
「主なる神様、イザヤの心に触れた十字架の言葉が、時空を超えて現代に生きる私たち一人一人にも語りかけられて、すべての罪を許し、清め、さらにこの世界に神の言葉を宣言する祝福された者として遣わしてくださることを感謝いたします。どうか、その呼びかけに、こたえて、その力を、主にあって喜んで用いるものにしてくださいますように、主よ、ここに集められたものたちが、一人ももれることなく、神の救いに与り、さらに神の恵みの御業に用いられることができますようにと、祈ります。この祈りを主イエスの御名によって感謝して祈ります。アーメン」

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あなたはわたしに従いなさい

□聖書の箇所 ヨハネによる福音書21章15~22節

 先週は、主イエスの御復活を祝うイースター礼拝を行い、その中で、見える神の言葉である洗礼と聖餐の恵みにも与ることができました。この朝は、役員任職式と日曜学校ならびに、こひつじ幼稚園教師認証式を行います。主イエスキリストの恵みと光の中で、この礼拝が祝福され、一同が恵まれて、生きる力と知恵と愛を新たにすることができるように、祈りましょう。「恵み深い天の神様。私たちは主イエスキリストの復活を祝い、その恵みと光を受けて一週間の歩みをしました。心から感謝します。けれども、その歩みの中で神様に背き、御心を行うことができず、あなたを悲しませた日々もございました。どうか、私たちの罪をお赦しくださり、心を清くし、今日新たな力をお与え下さい。様々な悩みを持ち、あるいは病み、あるいは心悩むものたちの上に、上よりの御力をお与えくださいますように祈ります。一人一人の上にあなたの導きがありますように、集い得ない兄弟姉妹たちの上に、今週も変ることのない、あなたの導きと支えが豊かにありますように。この祈りと願いを主イエスキリストのお名前によって、感謝して祈ります。アーメン」

 さて、本日の聖書箇所は、ヨハネの福音書21章15節から22節ですが、本日も主に三つの御言葉に注目し、心に刻みたいと思います。15節の「あなたは、わたしを愛するか」16節の「わたしの羊を飼いなさい」そして、22節の「あなたは、わたしに従ってきなさい」の三つの御言葉です。主イエス復活後のある朝、朝食を済ませた後で、主イエスは弟子のペテロに話しかけました。「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか。」このイエスの言葉はいささか躓きを与える言葉かも知れません。主イエスが愛の比較をしておられるかのようにもとれるからです。けれども、このとき、主イエスがお話しになった相手が、12弟子を代表するペテロであったこと、そしてその彼が十字架に向う主イエスのことを「知らない」と否定していたこと、さらにやがては、ペテロが、その後の教会の土台とも柱ともされる人物であったことを思うときに、私たちは、この主イエスの言葉に含まれる意味の深さ、重さを思わざるを得ないのです。

 主イエスは、このとき、ペテロに対して、「あなたはわたしを愛するか」という問いかけを三度も行っています。15節と16節と17節に、その主イエスのペテロへの問いかけが記されています。この箇所だけを見るなら、何かしら「くどい」言葉です。しかし、このとき三度、主が尋ねられたということで、多くの人が思い起こすことがあります。それは、ペテロが十字架を前にした主イエスを見捨てて、三度「その人のことは何も知らない」と言っていたことです。十字架を前に、「あなたのためには、命も捨てます」絶対裏切ることはしないと断言する弟子のペテロに主イエスは「あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言っていました。しかし、主イエスはその彼に対して、次のようにも語っておられたのでした。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」そして、ここに、主イエスへの信仰と愛において挫折したペテロが、主の愛と光の中で立ち直っていく様子が記されているのです。

 ペテロはこのとき、主イエスに三度「わたしを愛するか」と問われながら、自分が三度、主イエスを知らないと言ったことを思い起こしていたと思います。そして、自分の信仰の弱さや愛の足りなさを思っていた。そのように思い出しながら、主イエスがその弱さを責めるのではなく、その罪を赦し、心の傷を癒し、さらには、その愛を強めて再び立たせてくださる愛をひしひしと感じていた。それはペテロの悔い改めと同時に、深く豊かな立ち直りのときでもありました。
 ペテロは、このとき、主イエスの質問に対して、すぐに「はい、愛しています」と答えることをしませんでした。このことに対して、疑問を投げかける人もいます。このような答え方は率直ではないというのです。しかし、むしろペテロは、このとき自分に正直であったのだと思います。自分の、人間の力の限界というものを思い知らされていた。そして、それだけではなく、その限界のある人間の力と共に、人の愛を支える神の愛の力を本当に知らされた。それゆえに、彼は自分の力ではなく主イエスの力と愛に、信頼したのです。こうして、ペテロは主イエスの深い愛の中で、心癒され、立ち直っていきました。「人は愛の中でこそ、自らの罪を深く認め、立ち直る 」といわれます。ときに私たちには厳しい言葉が必要ですし、そうした厳しい言葉を正しく受け止める柔軟な心を持っているということは大切なことだと思います。しかし、多くの場合、厳しいだけのさばきの言葉には、人は、心を堅く閉ざしてしまうのではないでしょうか。そして、たとえそこで罪を認めたとしても、表面的な反省であり、深い罪の悔い改めは起こりにくいのです。ペテロの場合、彼は主イエスから三度、「わたしを愛するか」と問われます。その問いかけを聞きながら、自らが三度主を知らないと語った主への裏切りを思い起こした。そして、その裏切りの罪を責めるのではなく、赦し、癒す主の愛を感じていたにちがいないのです。こうして、その愛の中でペテロは、より深い悔い改めに導かれ、立ち直りの機会を与えられたのでした。

 こうして、主の愛の中で立ち直って行くペテロに対して主イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。この朝、二番目に心に刻む御言葉です。この羊とは、念のために申しますが、文字通りの羊ではなく、主のものとされた人々、教会に呼び集められ、主の言葉によって守られ、養われる人々のことです。ヨハネの10章10節において、「わたしが来たのは、羊が命を得させ、豊かに得させるためである」と言われていた人々のことです。その主の羊、小羊とされた人々が今、ペテロを代表とする弟子たちの手に委ねられようとしていました。すべてのキリスト教会の始まり、キリストを中心とするすべての働きの始まりがそこにありました。
 そして、その務めを委ねられるということは、まことに光栄なことですが、同時にまことに厳しい務めでもあるということが、ここで示されます。18節をごらんください。「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。」ここで言われていることの主な意味は、「若いときは自由で好きな生き方ができるが、年をとると、不自由な生活しかできなくなる」ということではありません。もともとは、そういう諺であったようですが、ここで主イエスが言おうとしていることには、さらに深い意味が込められていました。それは、「人には年齢と共に責任がまし、自分が望んでいなくても、どうしても成し遂げなくてはならない大切な使命がある、時にはそのためにいのちをかけなければならないことさえあるのだ」ということです。

 かつて、主イエスは「わたしは、良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語っておられました。そして、今、裏切りの罪を深く認め、その罪を赦され、主の深い愛の中で立ち直ったペテロに、主イエスは、世の人々を罪から救い出し、神の愛の中で守り育てる聖なる務めを、委ねようとしているのです。「ほかの人があなたに帯を結び付け、行きたくない所へ連れて行くであろう」とは、日本の戦国時代の武将が、出陣のときに家来たちの手によって戦いの備えをする姿を思い浮かべればよく分かるかもしれません。
 人には闘わなければならないときがある。そのために、神にいのちをささげなければならないこともあるのだということです。神がそのひとり子をお与えになるほどに愛した人のいのちを守り、救い出すために捧げる尊い犠牲と献身の生涯です。その厳かな言葉がここに記されているのです。「手を伸ばす」とは、十字架に付けられることを物語る言葉であったといわれます。使徒ペテロは、主イエスと同じようにして十字架にかかる殉教の死を遂げた。そのようにして、主の弟子としての特別な生涯に導かれ、神の栄光に与ったのでした。

 このヨハネの福音書が書かれ、最初に読まれた時代は、厳しい迫害の時代であったといわれています。そして、その迫害の中で文字通りいのちを捧げた人々がいた。そして、教会はそうした殉教者の血によってきよめられ、形づくられ、成長し、前進していったのです。人々はそのことを誇りともしました。反対に殉教者の出ていない教会には、劣等感さえあったのではないかと指摘する学者もいます。ヨハネとその弟子たちに導かれた教会は、そのような教会であったのです。
 20節21節をごらんください。「ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、『主よ、あなたを裏切る者はだれなのですか』と尋ねた人である。ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうなのですか。』」ここで、なぜペテロは振り向いたのでしょうか。聖書はそのことについて、詳しく記してはいません。しかし、この箇所について解説をする学者たちが、指摘することがあります。それは、ここでペテロはヨハネのことが気になった。ただ自然に、年の若いヨハネのことを気にかけ配慮したというよりも、むしろ、ヨハネの生涯と自分の生涯を比較して、動揺したのではないかともいうのです。

 ここに、私たちが主イエスを信じて従うときに、乗り越えなければならない大きな課題があるように思います。それは、ほかの人の顔色や行動を見ながらではなく、主イエスを真っ直ぐに見つめながら行うということです。とくにこのことは、自分の行動をほかの人々の意見や世間体を気にしながら行う傾向が強い私たち日本人にとっては、大切なことであると思います。ほかの人がどうのように思うか、どう言うかということも大事なことです。しかし、それが一番大事ではないのです。一番大切なことは、神がどのように思われるか、そして、主イエスがどう言われるかです。私たちはいつも主の御声に聴き従う者の群れでなければなりません。今年の教会標語のように「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではありませんか。」

 主イエスはかつて、ペテロに言われていました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ、ペテロ、岩と呼ぶことにする。」そして今、主は、そのペテロにお語りになるのです。22節「イエスは彼に言われた、『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい。』」これは実に厳しい言葉です。とりようによっては、冷たく乱暴に聞こえる言葉です。「人はどうでもいいではないか。あなたはわたしに従え。」しかし、私たちはこれまで、主イエスの愛に満ちた言葉に養われてまいりました。これは、私たちの神と人々に対する中途半端な、優柔不断な態度を断ち切る、愛に満ちた厳しい言葉です。「人は人、あなたはあなた。しかし、そのあなたと共にわたしはいつもいる。」そして主は、ヨハネと共にもいてくださるのです。

 日本語の聖書だけでは、その本来の意味が導き出されませんが、22節で主イエスが、ヨハネについて語った「生き残っている」という言葉は、このヨハネの福音書の中では、大切にされてきた特別な言葉です。それは、ギリシャ語で「メノー」「留まる・つながる」という言葉です。15章のぶどうの木のたとえで主イエスが語られていました。5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたは何一つできないからである。」その「つながる」という言葉が、このとき、「主が愛しておられた弟子」すなわちヨハネに対して語られたのです。そして、それは、ヨハネに続く人々、主イエスが愛されるすべての人々に語りかけられることばとなりました。なぜ、ヨハネはこの福音書の中で、自らの名を名乗らなかったでしょうか。そこに、彼の謙遜があると思いますが、もっと深く豊かな理由がありました。それは、主に愛される弟子は私だけではない、この福音書を読む人々が、聴く人々が皆主に愛される特別な人々なのだ、そうした主にある愛と真実な群れをこの地に築いていきたい、そのことを絶えず願い祈っていたからだと思うのです。ここにいる皆様は、すべて、主イエスに愛されている特別な存在です。そして、皆さまに委ねられた人々も、この主にあって特別な方々です。私たちはその主の言葉を信じて、「わたしの来る時まで」つまり、主イエスが再びこの地上に来られるときまで、主イエスのからだである教会に、信仰と希望と愛をもってとどまり続けるのです。そして、ここから、キリストの愛に満たされ、福音をたずさえて、それぞれの場所に遣わされていくのです。

祈ります。
「主なる神様。私たちには様々な務めがあり、すべての人々が主にあるものとして守られ、生かされることを信じます。『あなたは、わたしに従いなさい。』どうかこの御言葉を聴き続け、主に従い通することができるよう導いてください。御名によって祈ります。アーメン。」

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主イエスの復活 <イースター礼拝>

□聖書の箇所 マタイによる福音書28章1~10節

 イースターおめでとうございます。本日皆様の中には、御高齢や御病気のために厳しい冬の間の外出を控えざるを得ず、イースター礼拝には何としても出席したいと強く願われ、その願いが叶って、出席しておられる方々がおられます。桜が咲きそろった西日本とは違い、本格的な春は来てはいませんが、それでも確実な春の訪れと共に、御一緒に復活の主を礼拝できることは何という大きな恵み、喜びでしょうか。先ほどは、洗礼式の恵みに与ることができました。そして、この後に、聖餐の恵みにも与ることができます。イエス様は、聖書を引用しながら、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」とお語りになられました。私たちは、神の言によって、生きる者たちです。それなしには真実の意味で人は生きることはできないことを知らされた者たちです。この度洗礼を志願された方々と共に、ナザレン教会の「信徒必携」を読んで洗礼式に備えましたが、そこには次のような文章が記されています。「聖礼典には洗礼(バプテスマ)と聖餐の二つがあり、いずれも主イエスご自身によって定められたものです。礼典は『見えない恩寵(恵み)の見えるしるし』と言われ、また『説教が聴く神の言葉であるのに対して礼典は見える神の言葉である』と言われています。それゆえ、正統的な教会は主イエスのみ言葉にしたがって、これを重視し、忠実に守り通してきました。」こうして、先ほど、私たちは、お二人の受洗者の方々と共に、まさに見える神の言葉の恵みに与ることが許されたのでした。

 2012年の札幌ナザレン教会のイースター礼拝に備えられた聖書はマタイ28章1節から10節です。本日はこの箇所から、説教者が聴き取らせていただき、生かしていただいた主に三つの御言葉を、ご一緒に味わいたいと願っています。その一つは、2節の中ほどに記された「石をわきへころがし」という御言葉、二つ目は、6節の「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。」そして三つ目は、9節の「平安あれ」です。御自分の聖書をお持ちの方でゆるされますならば、その三つの言葉に線を引いていただければ幸いです。

 さて、1節には、行動することが許されない安息日が終わり、週の初めの日の明け方、つまり日曜日の早朝に、マリヤという名前の二人の女性たちが、「墓を見に来た」と記されています。この人たちは、マルコやルカによる福音書によると、ただ墓を見に来ただけではありません。安息日を前に、葬りの備えをすることがないままに、あわただしく葬られてしまったイエス様のお体に、せめて香料を塗ってさしあげたいという目的がありました。しかし、彼らには一つだけ、気がかりなことがありました。それは一体だれが、主イエスの御体がおさめられたあの大きな石を動かすことができるのかという問題です。ユダヤの墓は、巨大な石が、その入口に、扉のように用いられているものであり、それを動かす人がいなければ、誰も中に入ることはできないものであったからです。したがって、この女性たちも、その石をどうやって、動かすことができるか、あるいは誰がそれをしてくれるのかと思いながら、この時、墓に向っていたのでした。数名の女性たちの力ではとても動かすことはできない石、ただ人間の力だけではこれを動かすことができず、同時に、この石の前には、主イエスのお体がその中に入れられたとき以来、兵士たちが見張りの番をしているのです。そう言う意味では、この石は幾重にも取り除くことがまことに難しい、困難な石であったのです。常識的に考えるならば、だれも行動を起こすことはできない、手も足も出ないような困難が彼女たちの前に立ちはだかっていたということができるのです。しかし、それでも彼女たちは、主イエスへの深い思いをもって、墓へと向ったのでした。ところが、彼らが、墓に着いたときには、すでに石は転がしてあり、取り除いてあって、主イエスはそこにおられなかったのです。マルコによる福音書の16章には、墓に向うときの女性たちが互いに交わしていた言葉「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」に続いて、16章4節には、誠に印象的な言葉が記されています。「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。」「石はすでにころがしてあった。」何と慰めに満ちた力強い御言葉でしょうか。

 そこに、私たちは、私たちのために働いてくださる神の偉大な御力を見ることができます。その言葉には、主イエスを信じる人々にとっての深い慰めと喜びが豊かに含まれています。主イエスは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と約束してくださいました。その言葉の本当の意味はどこにあるのでしょうか。私たちには、様々な課題があり人生の重荷があります。そうした重荷を懸命に背負いながら、互いに協力をし合いながら、私たちはこの世の歩みを続けています。そこにも素晴らしい喜びがあります。しかし、それでも、どうすることもできないような困難な事態が私たちの前に立ちはだかることがある。力を合わせて、懸命に頑張りながらも、もう前に一歩も進めないようなことも私たちの人生にはある。しかし、まさにそのようなときに、立ち込めた黒い雲が切れて、青空が現れるように「目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった」という素晴らしい神さまの愛の御業の展開が私たちの人生に訪れることがあるのです。目を高く上げ、主の御業を見て、主の御名を崇めます。

 先週も、素晴らしい神さまの恵みに与ることができました。お二人の方々と、それぞれに洗礼の備えをして参りましたが、この洗礼のために、多くの祈りが積まれてまいりました。そして、主なる神がその祈りに応えて、困難な石を一つ一つ取り除いてくださって、今日の喜びの日を迎えさせてくださったということがよく分かり、主を賛美しました。また、金曜日には、重い病気のために昨年度、一度も登園することができなかったこひつじ幼稚園の正博君のために、卒園式が行われました。先日、一年ぶりに退院が許され、小学校の入学式に出席することができた正博君が、ご両親と共にその入学式の帰りに、幼稚園にも来てくださり、幼稚園は、正博君のために卒園式を行ったのです。幼稚園の玄関には、「こひつじ幼稚園卒園式」の看板と共に、「まさひろくんおかえりなさい」の横幕が張られました。急性白血病という重い病と闘って退院された正博君とご両親に神さまは、入学式と卒園式の二重の喜びをプレゼントしてくださったのです。病院で正博君に付き添って、常に明るい気持ちを持って共に戦ったお母さんは、こひつじ幼稚園のみなさんが、たえず祈って支えてくださったことの感謝を述べられ、教会の皆さまのお祈りに感謝いたしますと述べて、その感謝のしるしとして教会に献金をささげてくださいました。正博君のような重い病になった家族には、様々な思いがおありのようです。その病を知らせることなく、静かに戦っておられる方々もおられます。そうした方々にも理解を示しつつ、正博くんのご家族は、その病を知らせてくださり、そのことによって、多くの方々が祈り、寄り添い、支え、暖かい心で励まし続けました。ご家族はその励ましを生きる力に変えて頑張りつづけました。そして、この喜びに日を迎えたのです。正博君は、今、前をまっすぐに見つめて歩み出しました。どうか、その心と体とすべての生活が守られ、祝福され、喜びに溢れることができるように、祈っていただきたいと思います。

 本日、二番目に心に留めたい御言葉は、6節の「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである」という御言葉です。「もうここにはおられない」という御言葉に、すべての人が耳を傾けて聴かなければならない素晴らしいメッセージが含まれています。使徒パウロは、コリントの教会の信徒たちに、「兄弟たちよ。わたしが以前あなたたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。この福音によって救われるのである」と述べてから、次のように語りました。「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、12人に現れたことである」と。ここには、キリストにおいて起こった出来事がそのままに書き記されています。どうして、そのことが最も大事な、そして、最も喜ばしい知らせなのでしょうか。それは、キリストの死と葬りが、私たち人間がどうすることもできない罪を完全に葬り去る救いの出来事につながり、さらにキリストの復活が、私たちの永遠の命につながるからです。

 先ほどの墓の石は、普通の人の力ではどうしても動かすことのできないものであり、それはまさに、神の力によらなければ、動かすことのできないものでした。そして、それは、人間にとっての死の力を象徴的に示しているものでもあったのです。しかし、今や、その死の力に打ち勝ってくださるただ一人のお方が現れてくださったのです。それは、私たちをやがて、その下に閉じ込めてしまう死の家に、主イエスの復活によって、誰にも妨げることのできない光が差し込んだということです。
 旧約聖書の中に、怪力を持つサムソンという人物が登場します。その彼が力を失い、敵の手に捕らえられて、目をえぐられ、痛めつけられたあげくに、敵の宴会の席に引き出されるのですが、再び与えられた神の力で縛り付けられていた柱を揺り動かして、その建物もろともに敵を滅ぼしてしまうという有名な物語です。旧約聖書が最終的に指し示すお方はキリストです。サムソンのすべてが主イエスを指し示す訳ではありませんが、ただ一つのことは言えると思います。それは、主イエスは私たちの罪のために死んでくださり、その死によって、すべての人の罪を打ち滅ぼしてくださったという事実です。主イエスの十字架の死によって、私たちを永遠に閉じ込めてしまう死の家の扉は、みごとに打ち破られ、そのことによって、わたしたちにはもはや再び、死の恐れをいたく必要がない者とされたということです。そのことを思うときに、わたしたちにはこの朝、この地上における最も喜ばしい知らせを聞くことが許されています。まさにキリストによる福音です。「もうここにはおられない。よみがえられたのである。」それは、そのまま、わたしたちの人生にもおこりうることです。主は、わたしたちのためによみがえられました。

 本日最後に、皆さんと共に、味わいたい御言葉は、9節に記された、復活の主によって語られた「平安あれ」という言葉です。主イエスは、復活の喜びの知らせを受けて、「恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、その知らせを弟子たちに知らせるために走って行った」女性たちに出会ったと、9節に書かれてあります。復活の主は、この女性たちに対して、「平安あれ」と仰せになったと書いてありますが、本来は、「喜びなさい」という言葉です。驚いて帰っていく人たちに主は、「喜びなさい」と語られたのでした。それは、どういう意味なのでしょうか。本当の喜びのないところには、本当の命もありません。私たちの肉体が生きていても、それは生ける屍に等しいものです。復活の主に出会って、本当の命の恵みを受けることができた使徒パウロは、さきほどのコリントの手紙の中で、不思議な言葉を書き記しています。それは「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」一体、パウロは何が言いたいのでしょうか。何を伝えたいのでしょうか。それは、主イエスが復活されたことと、それを信じる者たちにとって、復活の恵みがいかに大きいものであるかをどうしても知ってもらいたいのです。主イエスの復活が、あなたの復活につながる大きな喜びであることを信じて、喜びなさい。そして本当の意味で生きるものとなりなさいというメッセージを、福音を伝えようとしているのです。

 先週、受難週の祈祷会の中でも語らせていただいたことですが、ある牧師は、主イエスの十字架と復活の、私たちにとっての意味について、次のように述べています。「本当の意味で、重荷をおろした、あるいは思い残すことのない生活というのは、未解決の問題が自分の生活に山ほど残っており、そして、自分の生活の過去にはたくさんの失敗があって、そのどれもこれも、謝るだけではどうにもしようがないというような、そういう生活をしてきた自分である。しかも、なお、それらの全部を委ね、それらの全部が許されて、それらの全部が解決されていく道があると信じている生活こそ、本当に重荷をおろした生活ではないでしょうか。」ここに、私たちの心に深い慰めと確かな希望を与える真実な言葉があります。そして、そのような人生をすべての人にもたらすために、主イエスは生まれ、十字架にかかり、よみがえっくださったのです。主イエスは私たちのために、死んで、よみがえってくださいました。イースターおめでとうございます。おひとりおひとりの上に、この主イエスの恵みが豊かにありますように。

「主なる神様、主イエスの十字架とわたしたちのために主の復活を感謝します。そのあふれる恵みを感謝し、主の御名をほめたたえつつ、その恵みの知らせを人々に伝えるために急いで出で行く者としてください。」

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by nazach | 2012-04-08 19:38

王なるイエス

□聖書の箇所 マタイによる福音書21章1~11節

 先週、2011年度最終の礼拝の後に、教会総会を行い、昨年度の諸報告と、新年度の教会会計予算案を承認し、教会役員を選出、承認させていただきました。そして総会の中で説明をさせていただきましたように、新年度から、いくつかのことが変ります。その一つが、礼拝に出席される方々のために、週報をはじめとする印刷物をいれるボックスが用意されること、献金箱が新たにされること、袋に入れた献金も入るように少し大きくなります。そして、三つ目は礼拝に出席される方々の名前を互いに覚え、名前を呼び合って挨拶をするための助けとして、名札を用意することです。着用するかどうかはあくまでも各自の自由ですが、今月中に、その準備を整えたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 

 さて、新年度、最初の主日、そして棕櫚の主日であるこの日、私たちが共に読む聖書は、マタイによる福音書21章1節から11節ですが、12節の前半の御言葉「それから、イエスは宮にはいられた」までを、本日の聖書箇所とさせていただきます。説教題は、「王なるイエス」といたしましたが、本日はこの箇所から、特に、次の四つの御言葉に注目したいと思っています。第一には、1節にある「オリブ山」という言葉、第二は3節の「主がお入り用なのです。」、そして、第三は9節にある「ホサナ」という言葉と「祝福あれ」という言葉、第四に「イエスは宮に入られた」という御言葉です。

 まず、第一に注目したいのは、「オリブ山」エルサレムに入場されるイエス様が、まず、エルサレムの東に位置するオリブ山に行って、この山からエルサレムを眺められたということです。このことは見逃してはならない重要なことです。なぜ、重要かと申しますと、オリブ山は、終わりの日に、神が立たれる特別な場所として知られていたからです。旧約聖書のゼカリヤ書14章4節に、次のように記されています。「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ」と。「その日」とは、特別な日で、それはいよいよ終わりの日が来たことを物語っていますし、主イエスはそのことをはっきり心に留めておられたのです。そこには、この世界の真の王として立ち上がられたお方の、明確な自覚があったといわなければなりません。

 ケデロンの谷を隔てて、向こうにはエルサレムの丘がありました。そこには堂々とした神殿が建っています。主イエスはそのエルサレムの、表面的には美しい姿をオリブ山からじっと眺められたのです。私たちはその主の目が涙でぬれていた事実を忘れてはなりません。やがて、この街が破壊される日の悲惨な光景をはっきりと、主は見ておられました。先週の新聞に、これから日本列島を、首都東京を襲うであろう大地震による被害状況を予想する地震学者の予想が掲載されていましたが、今はそうした予想を関係ないと退ける人はいませんし、何とか、そうしたことに対処する道を一所懸命に考えて、有効な対策を取ろうとしています。私たちのナザレン教団本部ビルにおいても、危険になった住宅部分からの移転を完了させようとしています。しかし、それ以上の対策はまだこれからというのが実状です。どうか、正しい決断をすることができるように祈っていただきたいと思います。

 このとき主イエスは、エルサレムのためにただ嘆かれただけではありませんでした。またそこに乗込み、闘いに勝利を得て、権力を持った王として君臨するためでもなく、真の王としてこの町を救うために、平和の王としてこの町に入場されたのでした。このように主イエスは、平和の王としてエルサレムに来られたことを明確に示すために、平和の象徴であるロバの子を、このとき特別な乗り物として用いられたのでした。7節の後半をごらんください。「イエスはそれにお乗りになった。」と記されています。軍事的な王であるならば、馬に乗るのが自然でしょうが、ここで、主イエスがあえてロバに、それもロバの子を用いたことには、そのような意味があったのです。 

 このように、馬ではなく、ロバに乗ってエルサレムに入場されるイエス様のことを、ある人は次のように言っています。「大の大人が、子ロバに乗ってにぎにぎしく入場する。12弟子たちは、それを見て恥ずかしいとは思わなかったのだろうか。いたたまれない思になった者はいなかったか。弟子たちも多くの人々と共に、ホサナと叫んだのだろうか。もし自分なら、赤面し、子ロバに乗る者とは無関係であるように装うことだろう」と。皆さんはいかがでしょうか。私は、この子ロバに乗るイエス様を、お迎えするということの中に、神さまの恵みと導きとを見たいと思います。なぜなら、それは、私たちのために十字架にかかってくださるイエス様を、救い主として信じる正しい信仰につながっているからです。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」という御言葉がありますが、神さまの救いと祝福に与るためには、どうしても通らねばならない道筋があります。そして、それは時々、とても恵みとは思えないような出来事や小さな事柄の中に、より鮮やかに現されることがあるからです。私たちは小さく見え、ときにつらく思える事柄の中に存在する神の大きな御業と想定外の大きな祝福を見逃すことなく歩んでまいりたいと思います。その意味で、このとき、3節の「主がお入り用なのです」という言葉に従ってエルサレムに入場する主イエスのためにロバとロバの子を提供することになった名も無き飼い主、持ち主のことを思わざるを得ないのです。

 新年度を迎え、新たな課題を背負うことになった方々もおられると思います。その中には、自分の願いや意志とは反対に、いわば無理やりに背負わされることになった重い課題もあるのではないでしょうか。この後、主イエスは私たちのために重い十字架を背負ってエルサレムの丘を上っていかれますが、その重さに耐え切れずにうずくまる主イエスの十字架をたまたま通りかかった男が代わって担ぐ羽目になったことがマタイ、マルコ、ルカによる福音書に記されています。そして、その人がシモンというクレネ人であったと記されてあるのですが、マルコによる福音書は、そのシモンの息子たちの名前を記しています。そのことは何を物語っているのでしょうか。言えることは、マタイ、マルコ、ルカによる福音書の読者が、シモンという名前を知っていたということであり、さらに、マルコによる福音書の読者には、その息子たちの名前も知られていたということです。マルコによる福音書を読む人々の交わりの中に、その教会の交わりの中に彼らが入っていたと想像することもできるのです。無理やり主イエスの十字架を背負うことになったシモンにとって、その時の出来事は、とんでもない出来事でした。しかし、そのことがきっかけで、おそらく彼はキリストを信じる者となり、ローマ人の手紙によればおそらくはその妻も、その子どもたちも信仰に導かれていったのです。そのことを思うときに、私たちの人生において、特に教会生活の中で起こる出来事について、主イエスはそうしたときにはつらく苦しい出来事を通して、私たちを救い、恵み、大いに祝福してくださるのだということを覚えておきたいと思うのです。

 本日、三番目に注目したい御言葉は、このとき、群衆が主イエスに向って叫んだ9節に記されてある言葉です。「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」この言葉は元々、詩篇118編に記されている言葉です。25節26節に、次のように記されています。「主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。主のみ名によって入る者は幸いである。われらは主の家からあなたをほめたたえます。」ホサナとは、王をお迎えするときの「万歳」と言葉ですが、「今、私たちを救ってください」という意味をその中に含んでいるといわれています。少なくとも、そういう風に、この詩篇の中では使用されている言葉です。そして、いと高き所にホサナと、書いてありますが、ただ自分たちの間でだけ、私たちを救ってくださいと、言っているだけではなくて、いと高き所、つまり天においても、天使たちもまたわれわれを救ってくださいと、このお方に向ってそう言わなければならない、主イエスはそのようなお方なのだと言っているのです。このように、このとき、エルサレムに入場されたお方は、十字架におつきになられることによって、まことに天地の主に、王になられた。実に主イエスは私たちの王となられるために、十字架の道を歩まれ、ついに十字架におつきになられた、私たちはそのようにして十字架につかれたお方を真の王として信じ、告白しているのです。

 この日から始まる特別な一週間を過ごして、私たちは来週の日曜日に主イエスの御復活を特別に祝うイースター礼拝を行います。そして、その礼拝の中で洗礼と聖餐を行います。現在主イエスを救い主として信じておられる方の中でお二人の方が洗礼を受けることを志願して準備をしておられますが、教会が洗礼を志願される方々に問うことは、背負いきれないような数々の重荷ではありません。ただひとつのことだけを問います。「あなたは、あなたの王であられる主イエスを信じ受け入れますか、そこに本当に人間らしい生き方があることを信じて、教会を中心とした新しい歩みを始めることを志ざしますか」ということです。

 主イエスご自身が、私たちの王となるために、信仰の闘いをしてくださいました。そして、十字架におかかりになられて、私たちを苦しめる罪と死の力から私たちを解放してくださるために戦ってくださり、もはや罪と死の力が私たちを支配することがないように、王であられる主イエスは戦われたのです。そして、救いの道を切り開いてくださいました。私たちは、この十字架におつきになられた主イエスを仰ぎ、そこに私の罪も共に死んでいることを認めることによって救われ、主イエスの死からの甦りが私も又、主と同じように生きる者とされると信じることによって、救われるのです。主イエスは、そのように、私たちを救うために、私たちを愛して、私たちを捕らえてくださり、王として支配してくださり、私たちを永遠の滅びへと突き落とす力を持つ罪を滅ぼすために、十字架におつきになられたのです。主イエスを信じて、洗礼を受けるということは、王である主イエスを受け入れ、その恵みと愛の力にとりかこんでいただけるということです。

 宗教改革者のルターについては、数々のエピソードが伝えられていますが、私が最も愛し、大切にしているエピソードの一つは、彼が夢の中で、悪魔にその罪を攻められ、その通りであり、一言も反論できないときに、悪魔に向って叫ぶ言葉です。ルターはこう言うのです。「たしかにそのとおりだ、しかし、私の主イエスは、その私の罪のために十字架にかかり、死から甦ってくださった。私はそのことを心から信じて、洗礼の恵みに与ったものなのだ」。洗礼は本来、全身を水に浸して行いました。前任の教会ではそうした形式でも洗礼を行うことができるように、会堂を建築するときに、講壇に洗礼槽を作りました。水に入っていく場所と出ていく場所を別にしたいとも願いました。それは実現できませんでしたが、洗礼が主イエスの十字架と復活の恵みに与る大切な儀式であることを目にも見える形であわらしたかったのです。そして洗礼式のたびごとに語った言葉があります。洗礼式は古い自分のお葬式であり、新しい、本来の自分の誕生式であるということです。主イエスと共に罪のからだが滅びて、主イエスと共に新しくされて生きていく。ここでのみ、私たちは救われ、ここでのみ、私たちは真の意味で生かされ、ここでのみ、私たちは困難な人生を、信仰と愛と希望を失うことなく、生きていくことができる、そのためにこそ、主イエスはエルサレムに入場されて、十字架への道を歩みとおされたのでした。

 最後に、12節前半の「それから、イエスは宮に入られた」という言葉を味わいたいと思います。群衆に熱狂的に迎えられたイエス様でしたが、そのまま、まっすぐにエルサレムの宮に、神殿に入っていかれたということに、心を留めたいのです。そこに大切なメッセージがあります。イエス様が王であるならば、なぜ、このとき、エルサレムを政治的に支配していたピラトの官邸に向おうとしなかったのでしょうか。ピラトを退けて、政治の変革を成し遂げることも可能であったかも知れないのです。しかし、イエス様はそうしたことを全く考えてはおられなかった。それは、主イエスに従う人々がこれ以上に増えたとしても同じことでした。

 このとき、イエス様が最も問題にされたのは、ピラトの政治ではなく、別のことです。主イエスがこのとき、問題にされたのはただ一つ。エルサレムの神殿のことでした。それも外見の美しさや壮大さではなく、そこで、神の御心にかなった正しい礼拝が守られているかどうかであったのです。これは非常に大切なことです。そして今も、イエス様のこの世界に対する最も深い関心は、教会の礼拝にあります。なぜなら、教会において、真の礼拝がなされているならば、社会はその最も深いところで、地の塩の存在によって保たれ、支えられ、反対に、教会において、真の礼拝がなされていないならば、この世界はその土台から崩されていき、そのくずれをくいとめるものは、もはやこの世にはないからです。そのような大切な存在の一人として、私たちはこの教会に招かれていることを自覚して、このところで神の言葉が神の言葉として正しく語られ、正しく聴かれ、御言葉に基づいて、洗礼と聖餐が正しく行われ、その交わりを中心として豊かな神の家族としての教会が美しく形成されていくことを祈り願い、そのために喜んで労する者たちでありたいのです。

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あなたがたは地の塩・世の光である

□聖書の箇所 マタイによる福音書5章13~16節

 本日は、本年度最終の礼拝であり、礼拝後に、教会総会が行われます。1年の歩みを振り返り、神の恵みと憐れみを覚えつつ、新しい年度に向って、信仰と希望と愛をもって、祈りつつ教会の体制を整えるときですが、このようなときに、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」という、主イエスの大切な御言葉を読むことは、大変意味のあることです。なぜなら、そこに、主イエスが私たちキリスト者について願っておられる本来の姿が語られているからです。

 私たちは礼拝において、マタイによる福音書の5章を3節より12節までを、丁寧に読んで参りました。そして、私たちの救い主である主イエスが描くキリスト者とはどういうものであるかを学んでまいりましたが、この13節以下では、一歩前進して、心貧しく、悲しみを知り、柔和なものとされ、義に飢え乾き、憐れみ深く、心清く、平和をつくり、義のために苦しむものとされたものたちが、この世にあって、どのように存在し、どのように生きていくべきであるかが語られています。それが、地の塩、世の光として生かされるということです。主イエスは「あなたがたは、地の塩である。あなたがたは世の光である」と言われました。主イエスはここで、「あなたがたは地の塩になりなさい」とも「あなたがたは世の光になりなさい」とも言われていません。「あなたがたは、地の塩である。あなたがたは世の光である」と言われた。「あなたがたはすでに地の塩である!世の光である!祝福された新しい存在なのである!」と宣言されておられるのです。ただ、「塩である」とも「光である」とも言われなかった。「地の塩であり、世の光である」と言われた。それは大事なことです。なぜなら、塩は地に溶け込み、光は世にあって初めて役に立つものであるからです。

 キリスト者とは、この世の中で孤立して生活する人ではありません。キリスト者は、この世に特別な存在としておかれ、生かされているものです。ヨハネによる福音書の中に、弟子たちとの別れを前にして、主イエスが地上に残す弟子たちのために父なる神に特別に祈っておられる場面が記されています。ヨハネ17章9節から11節です。「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜った者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守ってください。」どうして、ここで主イエスは、特別に弟子たちのために祈られたのでしょうか。

 私たちの主は、全世界の主ではなかったでしょうか。天と地を造られた主は、皆の神、皆の主です。しかし、その主がここでは、世界のためにではなく、あえて、弟子たちのためだけに祈っています。ご自身のすべてをこの世界にお与えになられた神の子が、今ここでは弟子たちのために特別に祈っておられます。そこには、明確な理由がありました。それは、神さまにはこの世界を救い、祝福するための正しい順序がおありになるということです。スイスのヴァルター・リュティという牧師は、こう言っています。「イエスは、弟子たちを、嵐ののちに残った種をもつ農夫のように見られたのです。この残りの種に希望をつないだのです。つまり、弟子たちを通して、世界が見られているのです」と。

 かつて、主なる神さまは、神にそむき、神の祝福を失った世界の人々を救うためにアブラハムという人物を選び出し、彼を特別に祝福しました。そして、約束されたのです。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と。今、約束の地、イスラエルにおいて、そのアブラハムの子孫であるはずの人々と周辺の人々との間に激しい対立があります。両者共にそれぞれに言い分がありますが、忘れてはならないことは、人が神に選ばれるということは、その人自身の救いと祝福に留まらずに、周りの人々の救いと祝福のためであり、やがては全世界の人々の救いと祝福のためであるということです。イスラエルは、世界の祝福の基とされたという原点に立ち帰らねばなりませんし、私たちキリスト者も、先に主イエスのものとされたことによって、一時的に引き起こされるこの世との対立の中にあっても、そこで腹を立て、相手をのろうのではなく、あくまでも人々の救いと祝福を祈るものでありたい。そのことが、容易なことではないのは、私たちが何度も体験していることですが、使途パウロはローマ12章14節以下において、次のように述べています。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互いに思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。」

 さらにヨハネ17章15、16節には「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守ってくださることであります。わたしが世のものではないように、彼らも世のものではありません。」とあります。ここに、この世における私たちキリスト者の存在理由とそこに与えられた使命とが明確に記されています、それは、世を捨てた生活をするというのではない。あくまでもこの罪と悪の世に踏みとどまって、そこでキリストのものとして、地の塩としての地味な役目を果たし、時には世の光としての輝きを放ちつつ、生き抜いていくということです。そのために、主イエスは私たちのために祈ってくださる。そして、この罪の世にあって、最後まで守り抜いてくださるのです。

 ここで、塩の効力とその機能について、考えてみたいと思います。第一は、塩には腐敗を防ぐ力があるということです。主イエスは、地の腐敗を防ぐ塩、それがあなたがたであると言われるのです。第二に、塩は味を付けます。食物本来の味を引き出す力を塩は持たされているのです。そして「あなたがたは、地の塩である」と主イエスが言われることは、単なるキリスト者の描写ではなく、その言外に、キリスト者が身を置いているこの世の姿がそこに描きだされているということでもあります。つまり、私たちが置かれているこの世は、命の源である神から離れて、堕落し、汚れ、不快なものとなりやすい傾向をもっているということです。これが、この世について聖書が語っていることです。この世は堕落し、罪に満ち、悪に染まり、邪悪と争いに向う傾向を持っている。腐り、汚染される傾向のある肉や魚のような存在であるということです。そして、主イエスは、ご自身のものとされたキリスト者に向って、「あなたがたは、そしてあなたがたのみが、(これが聖書本文の強調点ですが)、地の塩である」と言われているのです。さらに主イエスは言われます。「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである」と。これは厳粛な警告です。当時イスラエルで使われていた塩は、岩塩でした。その中の塩分が風化によるか、他の鉱物と混じるなどして塩気がなくなったら、ただの岩であり、不要なものとなります。それは道に捨てられ、踏みにじられてしまうだけの存在になりさがってしまいます。そのようになってしまった岩塩のかたまりを、当時に弟子たちはよく見かけていたのではないでしょうか。主イエスはせっかく、地の塩とされたあなたがたは、そうなってはいけない。どうか地の塩の役目を果たし続ける人であって欲しいとの願いと祈りをこめて、この言葉を語っておられるのです。

 皆さんは、アブラハムの甥であるロトのことを覚えておられると思います。創世記18章に記されている話です。アブラハムの懸命のとりなしの祈りで、もし、ソドムとゴモラに10人の正しい人がいたなら、ソドムもゴモラも滅びることはなかった。10人とは、当時の社会の組織を構成する最小の数であるといわれます。しかし、残念ながらその10人がいなかった。つまり、ソドムとゴモラの町には、この町を腐敗と滅びから救う、神に祝福された少数者の集団が存在していなかったのです。いてもその塩味を失っていたのです。
 ソドムにおけるロトは、信仰者としての塩気を失っていました。そして、そのことは、私たちへの警告です。ですから、私たちは御言葉によって、自らの罪と汚れを示されたときは、素直に、ただちにそれを認めて私たちの罪をお赦しくださいと祈らねばなりません。そして、そのわたしの心が、あなたの心が新しいこと、全く新しいことが、さらには、世界の治癒が始まっていく聖なる場所になるのです。

 ヘルムート・ティーリケ牧師による、「主の祈り」―世界を包む祈りーという小さな素晴らしい本があります。愛読書の一つです。そこには第二次世界大戦の末期とドイツ敗戦の直後という厳しい時代になされた説教が収められているのですが、「われらの負債をもおゆるしください」という主の祈りの説き明かしの中で、次のように語りかけています。「『わたしたちの負債をおゆるしください』という祈りによって、主イエスは、今一度、『あなたがその人です!』というほんとうに個々人の中に食い込んでくる言葉を語っておられるのである。そして、『わたしの心が』そこで新しいこと、全く新しいこと、世界の治癒が始まるべき場所である、と指摘しておられる。」そう語った後で、テイーリケ牧師は印象的な言葉を語ります。「世界は、愛する諸君、ソドム・ゴモラの少数の正しい人々によって存続している。世界は、ほんの少数の小さな塩粒によって生きているのであって、あなたが、そして、わたしがその塩粒として召されているのだ。地球は、愛の冷えていない、その両手を高くあげている人の祈りによって生き、アトラスの腕によって支えられる大空のように、このような人の祈りによって支えられているのだ。世界は、この高く上げられた手によって生きているのであって、それ以外の何ものかによって生きているのではない!」と。そこに祝福された少数者としてこの世に生きるものとされた誇りと静かな喜びが語り出されています。

 「地の塩」という御言葉が思い起こさせる、一つの聖句があります。コロサイ人への手紙4章6節の御言葉です。「いつも、塩で味付けられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。」ある人は、これをこういうふうに言い換えています。「あなたがたの言葉が、どの言葉にも恵みが宿っているようにしてごらんなさい。それが、塩で味をつけるということである。」
 こうした言葉を聴くときに、私たちは自分の語る言葉が必ずしもそうした言葉となっていないことに気付かされ、恥ずかしい気持ちになります。ヤコブの手紙には、次のように記されています。「舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。わたしたちは、この舌で父なる主を賛美し、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、賛美とのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このようなことはあるべきではない。泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴から噴出すことがあろうか」と。ここで、示されることは、言葉を出す私たちの心が、その根底から清められていかなければならないということです。パウロは、塩で味付けられたやさしい言葉を使いなさいと勧める直前に、コロサイの教会の人々に、「わたしが語るべきことをはっきりと語れるように、祈ってほしい」と述べていました。そして、それは伝道者だけのことではありません。私たちが、家族と共に生きて、毎日言葉を交わすときに、繰り返し思いおこすべき御言葉であると思います。「どうか、主よ、私たちの言葉を清め、人をのろい、傷つける言葉ではなく、主イエスのように、人を生かす言葉を語るものとしてください」と絶えず祈るものでありたいのです。

 最後に、世の光であるということについて考えてみたいと思います。光には、塩とは違う役目が与えられています。それは、それを人々の前に輝かすという役目です。光はどんなに小さくても、それを隠すことができないのです。それは、山の上にある町が人々の目から隠れることができないのと同じことです。光はすべてのものを明るみにさらします。光を輝かせるとは、やみのわざ、隠れて行われ続けている恥ずべきことを大胆に指摘するということでもあります。そのようにすることには、苦しみが伴います。私は、憐れみ深く、心清く、平和をつくる人である主イエスが、その地上での最後の日々に、人々の罪を激しく追及し、そのことによって苦しみにあわれたということを思わざるをえません。主イエスはパウロがいうように、「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図られた」お方です。「できるかぎり、すべての人と平和に過ごそうとされた」お方です。しかし、その主が激しく怒られたことがあったことを私たちは見落としてはなりません。あのエルサレムの神殿で、異邦人の人々が礼拝をする場所が神殿で商売をする人々によってふさがれていることを、主は見逃すことができませんでした。パリサイ人の偽善に対して、主は黙っていることができませんでした。その心の底にある罪を御言葉によって照らし出し、そのことによって主は苦しみ、遂には十字架につけられましたが、その十字架によって、すべての人の罪が赦され、清められる道が開かれていったのです。カルバリの十字架はわたしのためのものです。

 本日、朝起きて、初めに読んだ聖書の箇所は、出エジプト34章でした。そこにはイスラエルの指導者とされたモーセの祈りが記されています。彼は、主なる神との交わりの中で、「いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるすもの、しかし、罰すべきものをば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代に及ぼすもの」という主の言葉を聴いたときに、モーセは急いで地にひれ伏して、主に言うのです。「ああ、主よ。わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください。そして、わたしたちの悪と罪とをゆるし、わたしたちをあなたのものとしてください。」モーセは、自分だけがイスラエルの民とは違うものであるとは決して思っていませんでした。赦されることのない罪をゆるしていただき、さらにはイスラエルの指導者としていただき、その指導者としても罪を犯す弱さを持つものとして、彼は民と共に神の前に出ています。そして、民の罪を主なる神の前にとりなしているのです。この祈りは、主イエスに引き継がれていきました、主はモーセと違い、罪を犯したお方ではありませんでしたが、私たちの罪をすべてお引き受けになって、十字架にかかってくださいました。そして、私たちが地の塩、世の光として、この世を支え、生かしつつ生きる道を切り開いてくださったのです。

 私たちは罪深く、弱く、少数者の群れとして、この世に、この日本の北海道の札幌の地に置かれています。しかし、この群れに主なる神は大きな期待をしておられます。その一つの印は、私たちの教会から複数の方々が北海道にあって、地の塩、世の光としてその使命を果たしてきた学校や施設の責任を担っておられるということです。今年60周年を迎えるこひつじ幼稚園の存在はもちろんのことですが、熱田姉は、4月より、北海道家庭学校の第8代校長として赴任されますし、酒井姉は、昨年4月より、北星学園の学園長としての重責を担っておられます。千葉姉は市立幼稚園の責任を園長として担っておられ、さらに礼拝者の中に公立校の責任者もおられます。札幌教会は教会をあげてそうしたこの地にある働きが神さまの御心にかなって行われていくように祈る特権とその幸いな使命を担っている教会です。そして、何よりも、皆様おひとりおひとりが、家庭にあって、職場にあって、学校にあって、地域社会にあって、かけがえのない地の塩として、世の光として存在させられています。命と光の源である主イエスを常に仰ぎつつ、主からの恵みと力と絶えず受け、祈りつつ、賛美しつつ、前進してまいりましょう。

主なる神さま
主イエスは、わたしは世の光ですといわれただけではなく、ご自身に従う者たちに、あなた方が地の塩、世の光なのですといわれました。私たちの心はこの言葉にたじろぎます。しかし、信仰の導き手であり完成者である主イエスを仰ぎ見て御力を受け、聖なる使命と務めを、この世にあって果たしてまいりたいと願い祈ります。どうか、弱く、罪深い私たちを赦し、清め、助け導いて、幸いな道を、光と聖きと平和に満ちたこの道を歩み続けるものとしてください。
 

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by nazach | 2012-03-25 20:01

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