札幌ナザレン教会 牧師 古川修二のメッセージ

by nazach
■聖書の箇所 列王記上18章15~24節

 エリヤは旧約を代表する預言者で、人々を神に立ち返らせるために立てられた神の器です。彼がアハブ王の前で、干ばつを預言してから3年が経過していました。ここで、エリヤは、雨が降らないのは、エリヤのせいであるとして彼を捜しだし、殺そうとしていたアハブ王に仕えるオバデヤという高官に、「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」と、告げます。
「主は生きておられる」この信仰告白は、現代に生きる私たちにも、信仰的に一歩前に進ませる力となる告白です。エリヤの第二の告白は、イスラエルの民に対するものでした。21節「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかし、バアルが神ならばそれに従いなさい」と。
エリヤの第三の告白は、36節に記された神への祈りによる信仰告白です。36節と37節。このときエリヤは、イスラエルの民を近くに集め、こわれていた主の祭壇を建て直し、祭壇の周りに溝を掘ってささげものの上に水を注ぎ、神への祈りをささげるのでした。その祈りには、静かな神の権威が込められていました。その権威は、人々をコントロールし、力で支配するようなものではなく、常に奉仕し、謙遜であり、信仰と愛と希望に満ちたものでありました。
神は、死んだ人の神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神である生ける主、イスラエルの神であることを告白します。さらに自分が主のしもべであること、そして、これから起こることが神の御言葉によることを宣言します。そして、主なる神が火をくだされることを宣言し、イスラエルの民が心を翻して神に仕える者となることを心から願うのです。
このとき、天から火がくだり、全焼の生贄だけでなく、すべてをなめつくしました。この出来事に民は驚き、「主が神である。主が神である」と告白するのでした。エリヤを通して、明らかにされた真理は、私たちが信じる神は今も生きて働き、祈りに応えてくださる愛の御方であるということです。その信仰の体験を、今週も、それぞれの生活の中で、体験させていただき、主の御名を崇めましょう。
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# by nazach | 2017-02-12 18:49

神の知恵を求める

■聖書の箇所 列王紀上3章3~14節

 就任当初のソロモンは、主なる神を第一として純粋に礼拝をささげ、主を喜ぶ心を持っていました。聖書はそのような彼を、3節で「ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだ」と評価しています。
主なる神は、そのことを喜び、ソロモンの捧げものを受けて、その夜、夢の中で彼に語りかけられるのでした。「あなたに何を与えようか、求めなさい」と。ソロモンの答えは賢明なものでした。自分は父ダビデの「誠実と公義と真心」のおかげで恵みを受け継いだだけであり、自分はまだ小さい子どもであり、王としての任務を果たす力はないことを正直に告白し、数が多く、数えることも、調べることもできないほどのイスラエルの民を治めるための正しい判断力と知恵とを求めたのでした。

 このとき若きソロモン王には必要なものがたくさんありました。しかし、そのことは誰よりも主である神ご自身が一番よく知っておられるということを、彼は知っていたのです。そして、神の知恵を求めたのでした。
このとき、ソロモンが主なる神に願ったことは、11節に改めて記されているように「訴えをききわける知恵」「正しい訴えを聞き分ける判断力」という実践的な知恵であり、言葉だけの抽象的な知恵ではなかったということです。
コリント第一の手紙4章20節に、「神の国は言葉ではなく、力である」という御言葉がありますが、聖書が教えている知恵は、私たちを新しく造り変え、私たちの人生における現実的な力とならなければ、すべては空しいのではないでしょうか。アントニー・デ・メロ神父は、次のような印象的な言葉を語りました。「私の態度のほか変わったものは何もなかった。それだから、すべてが変わったのだ」と。それは、自分自身が、聖霊の力によって、御言葉の力によって、変えていただかなければ、何の意味もないということです。しかし、もし、その自分が変えられるならば、私たちの周りに大きな変化が起こるということではないでしょうか。そのために、信仰の創始者であり、導き手であり、完成者であられるイエス・キリストから目を離さずに、この新しい月も歩ませていただきたいと思います。
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# by nazach | 2017-02-05 18:46

弱い時にこそ、強い

■聖書の箇所 第二コリント12章1~10節

 使徒パウロは、当時の社会にあって、非常に恵まれた環境で育った人の一人でした。ローマの市民権を持ち、当時の最高の学問ばかりではなく、宗教的にも最高の学びと訓練とを受けていました。そのような人がキリストを世界に人々に宣べ伝える伝道者になったのです。
しかし、そのパウロの肉体に、一つのとげのようなものが与えられていたのです。彼はそれが、取り除かれるために、幾度となく祈るのですが、取り去られることはなかったのです。このとげが、何であったかについては、多くの推測がなされてきました。しかし、そのとげが何であったかということよりも、そのとげが与えられた目的が、「高慢にならないように」ということにあったことが、最も大切なことです。

 彼はその苦しみをサタンの使いだと言っていますし、その苦しみそのものを有難いものだとは思っていなかったのです。それならば、それが取り除かれることのために何度も祈ることは自然なことであると言えると思います。そのように、パウロと同じように、肉体や精神にとげのような苦しみを持ち続けて、それが取り除かれるために、幾度となく祈ったという人は多いに違いありません。
パウロは、そうした人々のことも考えていたに違いないのです。そして、その人々に、自分と同じように、「わたしの恵みはあなたにたいして、十分です。今、すでにあなたに豊かに注がれ続けていますよ」という主イエスの声を聞いてもらいたいという切なる願いがあったのです。
ただ、パウロに言わせれば、そういう祈りも、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」という主の言葉も、次の御言葉、「わたしの力は弱いところに完全に現れる」ということを知らなければ、それを味わわせていただかなければ本当には理解ができないということです。そうした人間の本質的な弱さや罪に、どこまでも寄り添ってくださるただ一人の救い主イエスが言われます。「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と。
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# by nazach | 2017-01-29 18:39

あなたのその力で

■聖書の箇所 士師記6章11~18節

 ギデオンは、ミデアン人の来襲のときに、彼らの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていた、と記されています。その姿は、臆病にも、卑怯にも見えます。そんなギデオンの前に御使いが現れ、声をかけます。12節「大勇士よ、主はあなたと共におられます。」このときのギデオンにとって、その言葉は大げさな言葉にしか聞こえなかったと思います。しかし、私たちが忘れてはならないことは、私たちの主は、私たちのことをよく分かっておられ、私たちの本来の姿に優しく導いてくださるお方であるということです。
ある聖書学者は、ここに登場する主の使いは、イエス・キリストの姿を指示していると言います。主イエスは、いつも、私たちを愛し、励まし続けてくださるお方です。12弟子の代表となったシモン・ペテロに最初に出会った時の言葉は、「あなたはヨハネの子、シモンである。あなたをケパ、ペテロ、岩と呼ぶことにする」でありました。主イエスはシモン・ペテロのすべてを、その弱さを知っておられました。その上で、あなたを岩のようにすると言ってくださったのです。そういうだけではなく、彼のために祈り続けてくださったのです。その祈りは、私たちすべての者のために注がれているということができるのです。

 ギデオンは、必死に、自分にはできないと固辞しただけではなく、自分の家系はイスラエル部族の中でも小さく、弱いことを主張するのですが、新約の時代に生きる私たちが、忘れてはならないことがあります。それは、主なる神は、しばしば、弱く、無きに等しい者を選んで、用いてくださるということです。
コリント人への第一の手紙1章27節に、次のような御言葉が記されています。
「神は、この世の愚かな者を選び、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」と。
こうして、本日最も心に留めたい御言葉を語るのです。14節「主はふりむいて彼に言われた。『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアン人の手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか』」。さらに主は言われます。「わたしがあなたと共におるから」と。
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# by nazach | 2017-01-22 18:42

へりくだって祈る

■聖書の箇所 ルカ18章9~14節

 主イエスは、自分こそ義人、正しいと誇り、他の人々を見下げている人たちに対して、パリサイ人と取税人という二人のたとえ話をして、神さまの前に立つべき信仰者の姿を描きました。主イエスがこのお話をされたのは、自分こそ正しいと思っていた人たちであったということです。それは誰のことでしょうか。他でもない、私たちのことです。
パリサイ人が取税人と比較して、自分の信仰を誇ったこととは対照的に、取税人は、自分自身の罪を見つめ、その許しを、ただ主の憐れみにすがって祈り求めて赦され、義と認められたのでした。
この取税人とパリサイ人との明確な区別は、どこにあるかといえば、取税人は、他人を見なかったということです。他者を顧みる余裕はなかった。神の憐れみに支えられるよりほかに、神と共に生きることはできないということをよくわきまえていた。彼は、自分を依り頼むことなどできない、ただ、神さま、おゆるしください、あわれんでください、と祈り、神の恵みと憐みにすべてをお委ねする以外に、生きるすべがなかったのです。

 このときの取税人の祈り、「主よ、憐れんでください」「主よ、あわれみ給え」は、キリスト教会の中で、大切に祈られ続ける祈りとなりましたし、それぞれの個人的な祈りの中でも、大切にしたいと思います。
主よ、憐れんでください、私はあなたの憐れみと恵みによってしか立つことができません、歩むことができませんという祈りをもって、一日を始め、その日一日を、その憐みの中を、恵みと光の中を歩み行き、一日が終わるときに、主よ、憐れんでくださり感謝しますと祈って、安眠の夜を迎えることができる、そのように祈り、そのように生きるのが、私たちの人生なのではないでしょうか。
カトリック教会の方々はこの「主よ、あわれみ給え」という祈りを大切にして、礼拝の中でくりかえし祈ります。そして、宗教改革者ルターもこの祈りを大切にし続けていました。「主よ、あわれみ給え、キリストよ、あわれみ給え」とくりかえし、祈り続けたのです。私たちも、その祈りの心を大切にさせていただきたいと思います。
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# by nazach | 2017-01-15 18:34