札幌ナザレン教会 牧師 古川修二のメッセージ

by nazach
■聖書の箇所 創世記3章

 創世記3章は、聖書全体を凝縮した箇所であると言われています。神によって造られ、「はなはだ良かった」と記された人間がどのようにして神に対して罪を犯し、堕落していったのかということが、誰にでも分かる印象的な表現で描かれている箇所です。
6節に「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」と記されてあります。こうして最初の人間は罪を犯し、アダムとエバはエデンの園から追放され、神が言われたように「必ず死ぬ者」となり、死によって、人生を閉じなければならない存在になってしまったのでした。
 すべては、神と神の言葉を疑い、聞き従わなかったことの罰であり、その結果としての永遠の死でありました。しかし、憐れみ深い神様は、そうした人間を見捨てることなく、神と神の言葉に背き、神から離れて身を隠す人間を捜し続けておられます。

 9節。「主なる神は人に呼びかけて言われた。『あなたはどこにいるのか』」。しかし罪を犯した人間が最初にしたことは、神様から身を隠すということでした。けれども、ここに、神に謝ることの出来なかった私たち人間のために、女の子孫として、この世に生まれ、私たち人間がとうてい支払うことのできなった罪の罰を引き受け、悪魔に打ち勝ってくださり、私たちが神と交わりを回復する道を開いてくださるお方が登場するという約束が、すでに、書き記されていたのでした。

 15節。ある人は、これこそが、聖書の中に記された最初の十字架の預言であり、人類の救いのための最初の良い知らせ、福音であると述べています。アダムという一人の人が、最初に神様と神様の言葉に対して、不従順でありました。そして、恐ろしい罪が入ってきて、人間は死ぬべき、滅ぶべき存在となりました。ところが、主イエス・キリストは、神様に従順に従い、多くの人を義とし、永遠の命を得させる存在となりました。このお方のお陰で、十字架と復活の故に私たちは罪赦され、救われ、永遠の滅びではなく、永遠の命を得るものとされたのです。
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# by nazach | 2017-05-21 19:15

神に造られた人

■聖書の箇所 創世記1章27節、2章4~7節

 神様は、「わたしに似ているように、人を造ろう」と言われました。まず、土で人の形を造ってからその鼻にいのちの息を吹き込みました。すると、土でできた人の形に命が入り、人は本当の意味で生きた者となりました。他の生き物との違いは何でしょうか。人は、神を信じ、礼拝することができます。神様に祈り、お話しをすることができます。動物は、礼拝や祈りをしません。私たちは、神様が私たちに何かを語りかけてくださったときに、その神様に向ってお応えすることの出来る者として造られたのです。それが「神様のかたちに造られた」「神様に似る者として造られた」ということの意味です。

 また、神様は「人を男と女とに創造された」と書かれています。このあと「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と言われて、最初の人アダムのために、女の人エバをお造りになられたと書かれています。神が人を男と女とに造られたのは、お互いの足りない部分を補って助け合うためです。神様から与えられた大切な務めを果たすために、お互いが共にふさわしい助け手となるために、神は人を男と女とに造られたのです。助け手とは、単なる助手ではなく、神様が私たちの助け手であられるように、お互いになくてはならない大切な存在だということです。

 このように、神様は世界の創造の最後に人を、真心を込めてお造りになられました。そして、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった、非常に良かった」と記されてあるのです。私たち一人一人は、そのように、神様にとって、特別な作品なのですから、自分のことも、他人のことも決して軽んじてはならないのです。主にあって励まし合い、支え合う信仰の友が与えられているということは幸いなことです。人は一人だけで生きることはできません。互いに支え合い、誰かのために生きるときに、人は人となることができます。「人は人の為に生きてこそ、人」と言った人がいます。聖書は「神と人の為に生きる時に、人は生きる者となる」と教えています。
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# by nazach | 2017-05-14 19:13

天地創造

■聖書の箇所 創世記1章

 「はじめに神は」聖書冒頭のこの言葉は、聖書全体にとって欠かすことのできない導入であり、すべての物事は神が主導権をとっておられるということを宣言する言葉です。初代教会の指導者の一人であるアウグスティヌスは、次のように言っています。「神様は無から有を創造されました。何もないところから神様がお持ちの力によって一切のものが造られた。しかも、神様は、何か機械を作るというのではなくて、愛に満てるお方として、愛の創造者として、愛の交わりの対象である人間を創造の冠としてお造りになった」と。そう考えてみるときに、この言葉は神を賛美する言葉であるとも言えると思います。

 2節には、「神の霊が水のおもてをおおっていた」と記されています。「水の上を神の風が吹き荒れていた」と訳している英語聖書もありますが、自然現象としての風ではなく、聖霊なる神ご自身に言及した箇所だと理解することもできます。創造における聖霊の働きが、上空を舞いつつ、雛鳥を見守る親鳥のイメージで、心優しい聖霊の姿が印象的に描かれているのです。

 このように、「はじめに神は天と地とを創造された」とあるこの神は、三位一体の神様です。使徒パウロは、イエス・キリストはすべての物の創造者である、と宣言しました。私たちのことを愛し、その命さえも十字架の上で捨ててくださったイエス・キリストがすべての物の創造者でもあり、さらにすべての物を新しくしてくださるお方であるということを知ることは本当に大事なことです。

 この世界は非常に良い物として造られました。しかし、創造の冠として造られた人間が神から離れて罪を犯したために、すべての被造物が虚無に服して、苦しんでいる。そのことのために、主イエス・キリストがこの世に来られた。十字架にかかり、死んでくださり、人類と宇宙を破滅に導こうとする罪を一切飲み込んでしまったばかりではなく、復活の新しい力をもって、よみがえり、人類の最後の敵である死を打ち滅ぼしてくださった。このお方を信じる人は永遠の命をすでに得ている。これが聖書のメッセージです。
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# by nazach | 2017-05-07 19:10

共に歩むイエス

■聖書の箇所 ルカ24:13~43

 エマオ途上の弟子たちは、彼らに聖書を説き明かしてくださったお方との交わりの中で心開かれ、主イエスのことを深く知ることができました。主の姿が見えなくなったときに、彼らは語り合います。
 「道々お話になったとき、また聖書を説き明かしてくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか。」そのときにはまだ分からなかった。後で分かった。すぐにわからなくてもいい。分かるときが来るのを待つのです。私たちの信仰も、そのようにして成長していくのではないでしょうか。しかし、悟ることが遅くても、鈍くても、主の恵みを味わったときには、それを素直に喜び感謝するものでありたいと思います。
 この二人は、その喜びを、直ぐに伝える人になりました。しかし、この後弟子たちは、二人の報告を聞き、さらに彼らの交わりの中に現れてくださった主イエスの姿を見ても、まるで幽霊を見ているように恐れ、取り乱したと記されています。

 主の復活の出来事というのは、それほどに、私たちの思いにはるかに勝る出来事です。クリスマスの出来事も十字架もわかる。しかし、復活のメッセージにはついていけないという人が多いのです。確かに、それは、私たちの思いをはるかに超える出来事でした。しかし、だからこそ、私たちは、その出来事の証人とされた人々の言葉に耳を傾けるのです。「主イエスはすべての困難に、そして最後の人類の敵である死にさえも打ち勝ってくださった。そして、主イエスはそのいのちを、それを信じるすべての人々にわけへだてなく、与えてくださるお方なのだ。」

 私たちのためによみがえられた主イエスは言われます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と。あなたのために十字架にかかり、復活された主が、そのあなたに今、現れてくださり、「平安があなたにあるように」と声をかけてくださいます。すべては、この復活の主を信じることから始まります。魚を食べてくださった主の優しい愛を信じ、このお方に聞き従うことから、祝福された生活が始まります。
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# by nazach | 2017-04-30 19:07

開かれた心、開かれた手

■聖書の箇所 申命記15章7節~11節

 日本国際飢餓対策機構啓発総主事 田村 治郎師

 この世界には、わたし達と同じ地球、同じ時代を生きていながら貧困や飢えによって失われる命が4秒に1人あります。その命は生まれた場所に関係なく、創造主なる神のかたちに似せて作られた、イエスキリストの贖いにふさわしい価値を持っています。一人として、不当な扱いを受けることに「ふさわしい」命はありません。

 牧師としての立場をいただきつつ、日本国際飢餓対策のスタッフとして働くきかっけとなったのは、エチオピアでの1か月ほどの国内避難民の食糧支援の現場での経験でした。年配の女性が、一食を得るために何時間も食料配給の列に並ぶ姿、家族を全員失い「いつ食事をしたか思い出せない」ほど飢え、一人でテントに座る女の子、家族や家を失って結核を患い「わたしは生きていて良いのか」と問うてきた男性、それら人々との出会いを通して、ある聖書の言葉が頭から離れませんでした。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(第一ヨハネ3:18 新改訳聖書訳)
それまで、神学校や高校生伝道hibaの主事、牧師として様々な場所で繰り返し『神の愛、イエスの愛』を語ってきましたが、自分自身はその愛に「生きて」いたのか。そのことを問われました。

 申命記には、自身が約束の地カナンに入れないモーセによって、残される民へ「いかに生きるべきか」が記されています。その中でも15章では弱い立場におかれる人々への配慮に触れています。11節「貧しいものが国のうちから絶えることはないであろうから」この状況は現代でも継続しています。そのうえで7節「あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。」繰り返し、11節「必ずあなたの手を開かなければならない」と命じます。

 現代に生かされているわたしたちも様々な弱さ、痛みを覚えます。人の痛みよりも、まず「自分の痛みを全て解決してから」と思いがちなわたしたちです。しかし、わたしたちがこの世を生きる限り弱さや痛みが全てなくなることはありません。その上で、神は「他者に手を開け」と語りかけます。

 今おかれている立場で、わたしは、そして共同体である教会は、周囲に影響を及ぼすことができているのだろうか。他者に手を開き、関心を持ち、愛に生きることができているのだろうか。そのように聖書は問うてきます。

 先に救われたものとして、わたしたちは神から受けたあふれる恵みを他者に分け与えて愛に生きていきたいと願います。
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# by nazach | 2017-04-23 19:03