わたしをおつかわしください
2012年 04月 22日
■聖書の箇所 イザヤ6章1~13節
主イエスの御復活を祝うイースター礼拝を終え、先週は礼拝において、教会役員の任職式と日曜学校と「こひつじ幼稚園」の教師認証式を行い、その働きのために神の祝福を祈りました。日曜学校は今年度から新しい歩みをしていますが、新たに教師になった方々や、教師に復帰してくださった方もおられて感謝しています。幼稚園では、毎朝、職員がそろって礼拝をしてから一日を始め、礼拝の司会を職員が、自由に順番に行っているのですが、先週は、昨年から新たに職員となった愛美先生が、自ら申し出て、その司会を初めて担当し、賛美歌を選び、定められた聖書と解説を読んでから、ご自分の言葉で祈りを捧げました。天の神さまと呼びかけ、入園してきた子どもたちと、その子らを、助け、支えようとする年中、年長の園児たちの愛とがんばりを喜び、一日一日を子どもたちと共に大切に生きてまいりますので、神さま、お守りください。このお祈りを、イエス様のお名前によって感謝して祈ります。アーメンと祈られました。その真心のこもった祈りに、胸があつくなりました。こひつじ幼稚園は、札幌ナザレン教会と共に歩んでいます。その歩みがさらに祝されて、豊かな福音の実を結んでいきますように、祈り、期待し、お支えくださるように、お願い致します。
お祈りをします。「天の父なる神さま、私たちは、週の歩みを終え、あなたを礼拝するためにここに集まってまいりました。一週間の恵みを感謝するとともに、犯した過ちと罪を十字架の血によって清め、復活の命に生かしてくださり、新しい一週間を希望に満ちて歩み出すことができるようにしてください。教会と幼稚園につながるすべての人々の新しい一週間を祝福してくださいますように、祈ります。この朝ここに集う幸いを心から感謝すると共に、ここに今、来ることのできない方々のことを思わざるをえません。年老いてここに来ることが困難になった者たち、病んでいる者、看病している者に、あなたの慰めと励ましとをお与えください。仕事のために集うことのできない方々にも、あなたの平安と導きを与えてくださいますように。こうしてここに集うものは限られていますが、この町に、あなたを信じていない方々がたくさんいます。私たちが福音を伝えていないからです。どうか、教会の扉を開いて、多くの人々を招きいれることができますように。私たちがここから愛の福音を携えて出で行くことができますように。先週から、私たちはナザレン教団の希望誌のカリキュラムにそって、あなたの御言葉に聴き始めました。全国の教会を覚えてくださり、ナザレンの群れに属するすべての教会が、それぞれの地にあって、地の塩・世の光としての役割を果たし、他の教会と共に、福音宣教の使命を喜んで果たしていくことができるようにしてください。御言葉に養われ、キリストの体である教会をそれぞれの地に、豊かに立て上げていくことができるようにしてください。主よ、今朝もお語りください、私たちは聴き従い、御言葉に生かされて歩みます。主イエスの御名前によって、祈ります。アーメン」
さて、今日から、希望誌にそって、旧約聖書の預言書を礼拝で読んでまいりますが、本日の聖書箇所はイザヤ書の6章です。聖書は一冊の本ですが、旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻で合わせて66巻になり、33×9=27と覚えることもできます。これと同じように、イザヤ書も66章あって、聖書の中でもかなり長い書物ですが、この書も大きく二つに分けることができ、一つは1章から39章までの39章、もう一つは40章から66章までの27章、合計66章ということになり、聖書全巻の数と分類に一致します。イザヤ書は、その名前の意味が「主は救いである」というイザヤという人物によって書き記された旧約聖書の預言書の中では最も大きな書物です。主イエスがお生まれになる750年も前に書き記されたものですが、イエス・キリストのことが実に詳しく出てきます。その最も有名な箇所はイザヤ書53章ですが、そこには次のような言葉が記されています。53章4節から6節です。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向って行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置かれた。」主イエスがこの地上にお生まれになられる700年以上前の書物ですが、そこに記されている人物は、十字架におかかりになられたイエス様以外にはいません。さらに、42章2節以下には次のように記されています。「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞こえさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道を示す。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教えを待ち望む。」傷ついた葦、今にも消えそうな灯心ほどに頼りないものはない。しかし、ここに記された人物は、そうしたたよりない存在である人々を、一人ひとり、丁寧に導き、ついに一人残らず救い出してくださるお方だというのです。私たちのために十字架にかかり、死よりよみがえり、復活の命をお与えになられる主イエスのほかに、このお方にふさわしいお方はいません。
さらに、昨日の教会聖書日課は、イザヤ書43章8節から15節まででしたが、19節には次のような言葉が記されていました。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」と。イザヤ書には、このように、私たちの心を深く慰め、励ます御言葉がたくさん記されています。この機会にせめて一度はイザヤ書全体を読み味わっていただきたいと思います。礼拝では2回に分けて味わう予定です。この偉大な書であるイザヤ書を今週と次週の二回だけで学び、味わうことには無理があるのですが、今週は「イザヤの召命」の記事として良く知られた第6章を皆さんと共に味わいます。
召命という言葉を、私の手元にある国語辞書で調べますと、「キリスト教で、罪の世界に生きていた者が、神に呼び出されて救われること」と記されていました。ここには、旧約聖書最大の預言者であるイザヤが神殿で経験したいくつかの出来事が記されていますが、その一つ一つが、現代に生きる私たちにとっても大変重要な意味を持つ出来事です。そして、イザヤを罪から救い、さらに神の働きに召し出した神は、現代に生きる私たちにもそのようにしてくださるお方であることをこの箇所を通して読み取ることができたら幸いです。その第一の出来事は、神の栄光の輝きの中で、イザヤが自分自身のありのままの姿を示され、自らの罪を深く自覚させられたということです。本日、詳しく学ぶことはできませんが、これまで、イザヤは、神の民とされたイスラエルの民の罪について深く嘆き悲しみ厳しく語ってまいりました。しかし、彼自身が神さまの栄光の光を受けたときに、その光の中で、彼は自分自身の罪に対して深く嘆き悲しみ「ああ、わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」「わたしは、もうだめだ」と叫ばざるをえなくなっていたのでした。罪深いのは、民だけではなく、この自分もだと深く自覚させられたのです。5節をごらんください。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるのもので、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから。」しかし、第二に、イザヤは、神の赦しの確信を持つことができたのでした。犠牲の動物がささげられていた祭壇から、火で焼かれて燃えさかる炭になったその動物の一片がセラピムという名前の天使によって運ばれて、彼の口に触れたのです。それゆえに、たとえ「汚れた唇の者」であっても、その動物の犠牲のゆえに、神は「あなたの罪は赦された」と、宣言してくださったのでした。そして、その御言葉が、御言葉の宣言が、神の聖さに圧倒され、打ちのめされていたイザヤに許しの確信を与えたのでした。6節と7節をお読みしましょう。「この時セラピムのひとりが、火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、『見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた。』」小林和夫先生によると、ここでいう「祭壇」というのは、キリストの十字架のことです。神殿における壇というのはいけにえが罪のかわりにささげられたところでした。イエスさまの十字架は私たちの罪の身代わりとして死んでくださったところです。祭壇は十字架を示しています。そして、その祭壇の上から、天使が火をもってきてイザヤの唇に触れたというのですが、その火とは神の聖い霊を示しているのです。ここに、主イエスの十字架と復活の出来事から聖霊が地上にくだった聖霊降臨、ペンテコステの出来事の意味が示されているといってもよいと思います。そして、その神の出来事が、一人の人を罪から救い出したばかりか、さらに神の業に召し出したのでした。
主なる神は、こうして神による許しを経験したイザヤを神の働きに召し出そうとされ、イザヤはその御声を聴きます。8節です。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くであろうか」ここには、父、御子、御霊の三位一体の神が示されているといってよろしいと思います。そして、イザヤはその召し出しに、積極的に応えようとします。その姿勢は、イスラエルの指導者であったモーセやギデオン、預言者の一人であったエレミヤの場合とは対照的な姿でした。それは主イエスがその弟子たちを召し出したときに、彼らが何の抗議もなく主イエスに従ったのと似ているように思います。モーセは、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語ってから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」と語り、エレミヤもまた、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」と答えていたのです。また、ギデオンもそうでした。そのような人々に比べて、イザヤの場合は、主イエスの弟子たちのように、あるいは彼らよりももっと積極的に、神の召しだしに答えているといってよろしいと思います。一体なぜ、このとき、このような積極的な姿勢が生まれたのでしょうか。そこに、イザヤへの神の深いお取り扱いがあった、そして、それは、現代に生きる私たちへの神の取り扱いでもあるということができると思います。
20世紀を代表する神学者であったカール・バルトは、「私たち人間は神を知ることのできる存在ではない」と言いました。本当に罪に汚れている存在ですから、「聖なる神を見ることができない」それで、「神を知らないということさえも神に知らせていただかなければ分からない存在である」とも彼は言っているのですが、本当にそうだと思います。しかし、そのような私たちに、神を知ることのできる唯一の道筋が、十字架にかかり、よみがえられた主イエスによってもたらされたのでした。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、イエス様だけが、神をあらわした」のです。こうして神は、イザヤに、そして、わたしたちに、神の言葉を人々に告げるために誰をつかさそうかと述べられたのでした。それは驚くべきことでした。しかし、そこに、神の神たる姿が見事に現されているのです。
希望誌に基づいて、その解説を参考にさせていただきながら今年度の礼拝説教を語らせていただきますが、関谷信生先生は、ここで、次のように述べておられます。「神は『聖い』お方であります。『聖くない』者を受け入れることはなさいません。しかし『聖くない』者を変えることのできるお方です。更には、変えられた者に神の業を担わせえるお方です。そのお方はイザヤに『誰を遣わそうか』と問いかけたわけです。神は、かつて汚れていた者であっても、あるいは神を拒否した者であっても、遣わすことができるお方です。その神の前に立たされているのは、イザヤだけではありません。生きている者すべてが神の前に立たされているのです。その神にどのように、応答するかは、一人ひとりに託されています。」深い慰めと確かな希望とチャレンジに満ちたメッセージです。
しかし、こうして、立ち上がっていくイザヤに語られた神の言葉は、実に厳しいものでありました。それは、彼の言葉を聴いても受け入れることのない人々の頑固さの宣言であったからです。これに対してイザヤは「主よ、いつまでですか」と問いますが、それは単なる質問というよりも、人々の不信仰と頑迷さは、一体いつまで続くのですかという質問であり、むしろ神への抗議の言葉でした。そして、それは、福音を語り続けても、いつまでもそれを信じ受け入れようとしない人々を前にしての嘆きの言葉でもあると思います。それが、罪ある人間の現実です。先週も、そうした厳しい現実に直面させられました。物事は、なかなか思うようにはいかないものです。そこに厳しい現実があります。しかし、主なる神は、そこに、一つの確かな希望を語っておられるのです。それが、たとえ、木が切り倒されても、その切り株が残るように、聖なる種族がその切り株として残るという言葉でした。
ナザレン教団の宣教宣言がなされて、それに基づく基礎資料「神の宣教を担う教会として」が発行されましたが、そこに、心に刻むべき言葉が記されています。それは、私たちは、現代日本にあって、「祝福された少数者」として神に召されているという言葉です。いつの時代にあっても、神は、信仰と希望と愛を失うことのない小数の民を残しておられました。そして、その祝福された少数者を通して、神の素晴らしい救いの御業を力強く展開してきたのです。そして今、あなたが、私がその祝福された少数者の群れに、加えていただいているのです。主なる神は、この朝も、あなたに呼びかけておられます。「わたしは誰をつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と勇気を出して、あなたも今、応えてください。
先週も、幾人かの方々からお電話をいただきました。その一つは、「今までは神さまを信じてはいても、イエス様の十字架と復活を見上げてはいませんでした。今、十字架を見上げ、罪を認めて悔い改めます」という正直な言葉、そして、ある方からは、「日曜学校のために、今の自分にもできることを喜んでさせていただきたい」という申し出がありました。そして、今朝の講壇の花も、新たに奉仕を申し出てくださった方の作品です。子ども聖歌隊も、女性会も壮年会も、そして伝道委員会も新たな動きを始めています。確かに今、この教会に、ナザレン教団に、新しい神の業が起ころうとしています。すでに起こっています。その神の偉大な御力に大いに期待して、喜びをもって、主と主の言葉に聴き従ってまいりましょう。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」
お祈りをします。
「主なる神様、イザヤの心に触れた十字架の言葉が、時空を超えて現代に生きる私たち一人一人にも語りかけられて、すべての罪を許し、清め、さらにこの世界に神の言葉を宣言する祝福された者として遣わしてくださることを感謝いたします。どうか、その呼びかけに、こたえて、その力を、主にあって喜んで用いるものにしてくださいますように、主よ、ここに集められたものたちが、一人ももれることなく、神の救いに与り、さらに神の恵みの御業に用いられることができますようにと、祈ります。この祈りを主イエスの御名によって感謝して祈ります。アーメン」
主イエスの御復活を祝うイースター礼拝を終え、先週は礼拝において、教会役員の任職式と日曜学校と「こひつじ幼稚園」の教師認証式を行い、その働きのために神の祝福を祈りました。日曜学校は今年度から新しい歩みをしていますが、新たに教師になった方々や、教師に復帰してくださった方もおられて感謝しています。幼稚園では、毎朝、職員がそろって礼拝をしてから一日を始め、礼拝の司会を職員が、自由に順番に行っているのですが、先週は、昨年から新たに職員となった愛美先生が、自ら申し出て、その司会を初めて担当し、賛美歌を選び、定められた聖書と解説を読んでから、ご自分の言葉で祈りを捧げました。天の神さまと呼びかけ、入園してきた子どもたちと、その子らを、助け、支えようとする年中、年長の園児たちの愛とがんばりを喜び、一日一日を子どもたちと共に大切に生きてまいりますので、神さま、お守りください。このお祈りを、イエス様のお名前によって感謝して祈ります。アーメンと祈られました。その真心のこもった祈りに、胸があつくなりました。こひつじ幼稚園は、札幌ナザレン教会と共に歩んでいます。その歩みがさらに祝されて、豊かな福音の実を結んでいきますように、祈り、期待し、お支えくださるように、お願い致します。
お祈りをします。「天の父なる神さま、私たちは、週の歩みを終え、あなたを礼拝するためにここに集まってまいりました。一週間の恵みを感謝するとともに、犯した過ちと罪を十字架の血によって清め、復活の命に生かしてくださり、新しい一週間を希望に満ちて歩み出すことができるようにしてください。教会と幼稚園につながるすべての人々の新しい一週間を祝福してくださいますように、祈ります。この朝ここに集う幸いを心から感謝すると共に、ここに今、来ることのできない方々のことを思わざるをえません。年老いてここに来ることが困難になった者たち、病んでいる者、看病している者に、あなたの慰めと励ましとをお与えください。仕事のために集うことのできない方々にも、あなたの平安と導きを与えてくださいますように。こうしてここに集うものは限られていますが、この町に、あなたを信じていない方々がたくさんいます。私たちが福音を伝えていないからです。どうか、教会の扉を開いて、多くの人々を招きいれることができますように。私たちがここから愛の福音を携えて出で行くことができますように。先週から、私たちはナザレン教団の希望誌のカリキュラムにそって、あなたの御言葉に聴き始めました。全国の教会を覚えてくださり、ナザレンの群れに属するすべての教会が、それぞれの地にあって、地の塩・世の光としての役割を果たし、他の教会と共に、福音宣教の使命を喜んで果たしていくことができるようにしてください。御言葉に養われ、キリストの体である教会をそれぞれの地に、豊かに立て上げていくことができるようにしてください。主よ、今朝もお語りください、私たちは聴き従い、御言葉に生かされて歩みます。主イエスの御名前によって、祈ります。アーメン」
さて、今日から、希望誌にそって、旧約聖書の預言書を礼拝で読んでまいりますが、本日の聖書箇所はイザヤ書の6章です。聖書は一冊の本ですが、旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻で合わせて66巻になり、33×9=27と覚えることもできます。これと同じように、イザヤ書も66章あって、聖書の中でもかなり長い書物ですが、この書も大きく二つに分けることができ、一つは1章から39章までの39章、もう一つは40章から66章までの27章、合計66章ということになり、聖書全巻の数と分類に一致します。イザヤ書は、その名前の意味が「主は救いである」というイザヤという人物によって書き記された旧約聖書の預言書の中では最も大きな書物です。主イエスがお生まれになる750年も前に書き記されたものですが、イエス・キリストのことが実に詳しく出てきます。その最も有名な箇所はイザヤ書53章ですが、そこには次のような言葉が記されています。53章4節から6節です。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向って行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置かれた。」主イエスがこの地上にお生まれになられる700年以上前の書物ですが、そこに記されている人物は、十字架におかかりになられたイエス様以外にはいません。さらに、42章2節以下には次のように記されています。「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞こえさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道を示す。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教えを待ち望む。」傷ついた葦、今にも消えそうな灯心ほどに頼りないものはない。しかし、ここに記された人物は、そうしたたよりない存在である人々を、一人ひとり、丁寧に導き、ついに一人残らず救い出してくださるお方だというのです。私たちのために十字架にかかり、死よりよみがえり、復活の命をお与えになられる主イエスのほかに、このお方にふさわしいお方はいません。
さらに、昨日の教会聖書日課は、イザヤ書43章8節から15節まででしたが、19節には次のような言葉が記されていました。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」と。イザヤ書には、このように、私たちの心を深く慰め、励ます御言葉がたくさん記されています。この機会にせめて一度はイザヤ書全体を読み味わっていただきたいと思います。礼拝では2回に分けて味わう予定です。この偉大な書であるイザヤ書を今週と次週の二回だけで学び、味わうことには無理があるのですが、今週は「イザヤの召命」の記事として良く知られた第6章を皆さんと共に味わいます。
召命という言葉を、私の手元にある国語辞書で調べますと、「キリスト教で、罪の世界に生きていた者が、神に呼び出されて救われること」と記されていました。ここには、旧約聖書最大の預言者であるイザヤが神殿で経験したいくつかの出来事が記されていますが、その一つ一つが、現代に生きる私たちにとっても大変重要な意味を持つ出来事です。そして、イザヤを罪から救い、さらに神の働きに召し出した神は、現代に生きる私たちにもそのようにしてくださるお方であることをこの箇所を通して読み取ることができたら幸いです。その第一の出来事は、神の栄光の輝きの中で、イザヤが自分自身のありのままの姿を示され、自らの罪を深く自覚させられたということです。本日、詳しく学ぶことはできませんが、これまで、イザヤは、神の民とされたイスラエルの民の罪について深く嘆き悲しみ厳しく語ってまいりました。しかし、彼自身が神さまの栄光の光を受けたときに、その光の中で、彼は自分自身の罪に対して深く嘆き悲しみ「ああ、わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」「わたしは、もうだめだ」と叫ばざるをえなくなっていたのでした。罪深いのは、民だけではなく、この自分もだと深く自覚させられたのです。5節をごらんください。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるのもので、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから。」しかし、第二に、イザヤは、神の赦しの確信を持つことができたのでした。犠牲の動物がささげられていた祭壇から、火で焼かれて燃えさかる炭になったその動物の一片がセラピムという名前の天使によって運ばれて、彼の口に触れたのです。それゆえに、たとえ「汚れた唇の者」であっても、その動物の犠牲のゆえに、神は「あなたの罪は赦された」と、宣言してくださったのでした。そして、その御言葉が、御言葉の宣言が、神の聖さに圧倒され、打ちのめされていたイザヤに許しの確信を与えたのでした。6節と7節をお読みしましょう。「この時セラピムのひとりが、火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、『見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた。』」小林和夫先生によると、ここでいう「祭壇」というのは、キリストの十字架のことです。神殿における壇というのはいけにえが罪のかわりにささげられたところでした。イエスさまの十字架は私たちの罪の身代わりとして死んでくださったところです。祭壇は十字架を示しています。そして、その祭壇の上から、天使が火をもってきてイザヤの唇に触れたというのですが、その火とは神の聖い霊を示しているのです。ここに、主イエスの十字架と復活の出来事から聖霊が地上にくだった聖霊降臨、ペンテコステの出来事の意味が示されているといってもよいと思います。そして、その神の出来事が、一人の人を罪から救い出したばかりか、さらに神の業に召し出したのでした。
主なる神は、こうして神による許しを経験したイザヤを神の働きに召し出そうとされ、イザヤはその御声を聴きます。8節です。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くであろうか」ここには、父、御子、御霊の三位一体の神が示されているといってよろしいと思います。そして、イザヤはその召し出しに、積極的に応えようとします。その姿勢は、イスラエルの指導者であったモーセやギデオン、預言者の一人であったエレミヤの場合とは対照的な姿でした。それは主イエスがその弟子たちを召し出したときに、彼らが何の抗議もなく主イエスに従ったのと似ているように思います。モーセは、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語ってから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」と語り、エレミヤもまた、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」と答えていたのです。また、ギデオンもそうでした。そのような人々に比べて、イザヤの場合は、主イエスの弟子たちのように、あるいは彼らよりももっと積極的に、神の召しだしに答えているといってよろしいと思います。一体なぜ、このとき、このような積極的な姿勢が生まれたのでしょうか。そこに、イザヤへの神の深いお取り扱いがあった、そして、それは、現代に生きる私たちへの神の取り扱いでもあるということができると思います。
20世紀を代表する神学者であったカール・バルトは、「私たち人間は神を知ることのできる存在ではない」と言いました。本当に罪に汚れている存在ですから、「聖なる神を見ることができない」それで、「神を知らないということさえも神に知らせていただかなければ分からない存在である」とも彼は言っているのですが、本当にそうだと思います。しかし、そのような私たちに、神を知ることのできる唯一の道筋が、十字架にかかり、よみがえられた主イエスによってもたらされたのでした。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、イエス様だけが、神をあらわした」のです。こうして神は、イザヤに、そして、わたしたちに、神の言葉を人々に告げるために誰をつかさそうかと述べられたのでした。それは驚くべきことでした。しかし、そこに、神の神たる姿が見事に現されているのです。
希望誌に基づいて、その解説を参考にさせていただきながら今年度の礼拝説教を語らせていただきますが、関谷信生先生は、ここで、次のように述べておられます。「神は『聖い』お方であります。『聖くない』者を受け入れることはなさいません。しかし『聖くない』者を変えることのできるお方です。更には、変えられた者に神の業を担わせえるお方です。そのお方はイザヤに『誰を遣わそうか』と問いかけたわけです。神は、かつて汚れていた者であっても、あるいは神を拒否した者であっても、遣わすことができるお方です。その神の前に立たされているのは、イザヤだけではありません。生きている者すべてが神の前に立たされているのです。その神にどのように、応答するかは、一人ひとりに託されています。」深い慰めと確かな希望とチャレンジに満ちたメッセージです。
しかし、こうして、立ち上がっていくイザヤに語られた神の言葉は、実に厳しいものでありました。それは、彼の言葉を聴いても受け入れることのない人々の頑固さの宣言であったからです。これに対してイザヤは「主よ、いつまでですか」と問いますが、それは単なる質問というよりも、人々の不信仰と頑迷さは、一体いつまで続くのですかという質問であり、むしろ神への抗議の言葉でした。そして、それは、福音を語り続けても、いつまでもそれを信じ受け入れようとしない人々を前にしての嘆きの言葉でもあると思います。それが、罪ある人間の現実です。先週も、そうした厳しい現実に直面させられました。物事は、なかなか思うようにはいかないものです。そこに厳しい現実があります。しかし、主なる神は、そこに、一つの確かな希望を語っておられるのです。それが、たとえ、木が切り倒されても、その切り株が残るように、聖なる種族がその切り株として残るという言葉でした。
ナザレン教団の宣教宣言がなされて、それに基づく基礎資料「神の宣教を担う教会として」が発行されましたが、そこに、心に刻むべき言葉が記されています。それは、私たちは、現代日本にあって、「祝福された少数者」として神に召されているという言葉です。いつの時代にあっても、神は、信仰と希望と愛を失うことのない小数の民を残しておられました。そして、その祝福された少数者を通して、神の素晴らしい救いの御業を力強く展開してきたのです。そして今、あなたが、私がその祝福された少数者の群れに、加えていただいているのです。主なる神は、この朝も、あなたに呼びかけておられます。「わたしは誰をつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と勇気を出して、あなたも今、応えてください。
先週も、幾人かの方々からお電話をいただきました。その一つは、「今までは神さまを信じてはいても、イエス様の十字架と復活を見上げてはいませんでした。今、十字架を見上げ、罪を認めて悔い改めます」という正直な言葉、そして、ある方からは、「日曜学校のために、今の自分にもできることを喜んでさせていただきたい」という申し出がありました。そして、今朝の講壇の花も、新たに奉仕を申し出てくださった方の作品です。子ども聖歌隊も、女性会も壮年会も、そして伝道委員会も新たな動きを始めています。確かに今、この教会に、ナザレン教団に、新しい神の業が起ころうとしています。すでに起こっています。その神の偉大な御力に大いに期待して、喜びをもって、主と主の言葉に聴き従ってまいりましょう。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」
お祈りをします。
「主なる神様、イザヤの心に触れた十字架の言葉が、時空を超えて現代に生きる私たち一人一人にも語りかけられて、すべての罪を許し、清め、さらにこの世界に神の言葉を宣言する祝福された者として遣わしてくださることを感謝いたします。どうか、その呼びかけに、こたえて、その力を、主にあって喜んで用いるものにしてくださいますように、主よ、ここに集められたものたちが、一人ももれることなく、神の救いに与り、さらに神の恵みの御業に用いられることができますようにと、祈ります。この祈りを主イエスの御名によって感謝して祈ります。アーメン」
# by nazach | 2012-04-22 00:03



希望のことば 祈祷会編
