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2024年3月17日 礼拝動画

3月17日礼拝動画を配信いたしました。

「十字架への道」

■聖書 マタイの福音書 27章11~26節

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# by nazach | 2024-03-17 11:35

2024年3月10日 礼拝動画

3月10日礼拝動画を配信いたしました。

「ゲッセマネの祈り」

■聖書 マタイの福音書 26章30~46節

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「ゲッセマネの祈り」マタイ26:30~46 込堂一博牧師 


Ⅰ.イエスの悲しみ

最後の晩餐前にイエスは、しもべの姿で弟子たちの汚い足を洗われ、12弟子の一人が自分を裏切ることを予告された。イエスは、パンを裂き、ぶどう酒を弟子たちに与え、ご自分の十字架の死が、罪の赦しのために流される「契約の血」(28)であることを明言されて「聖餐式」を制定された。

 その後、ゲッセマネの園に出かけ3人の弟子たちに一緒に目を覚ましているようにと願った。その時イエスは、悲しみもだえ、「悲しみの余り死ぬほどです」と吐露された(37,38)。まことの人であるイエスの悲しみの深淵。


Ⅱ.イエスの祈り

 イエスは、ひれ伏して「できることなら十字架刑を逃れさせて下さい」と祈られた。イエスは、十字架刑の残酷さよりも、ご自分が罪とされ十字架上で父なる神に見捨てられることが最大の恐怖であった。悪魔はイエスが十字架刑を避けるように巧妙に誘惑して来た。3度の祈りの激闘の結果イエスは、十字架刑を受けることを決断された。その選択で罪人の救いの道が切り開かれた。


Ⅲ.イエスの命令

 イエスが必死で祈っている間、弟子たちは三度とも眠ってしまった。イエスは、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」(41)と弟子たちに厳かに命じた。「89歳には89歳の誘惑がある」とも言われる。「誘惑は常にある。こういう仕事をしていればなおさらだ。弱さを自覚し、私を守ってくれる聖書のことばを、いつも忘れないように読み返している」(トレイ・ヒルマン日ハム元監督)






# by nazach | 2024-03-10 11:42

2024年3月3日 礼拝動画

3月3日礼拝動画を配信いたしました。

「泣いていたモーセ」

■聖書 

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3月3日礼拝「説教要旨」

「泣いていたモーセ」出エジプト2章1~10節:國安洋子神学生

 あるレビ人の両親は、ヘブル人に生まれた男の子はみなナイル川に捨てて殺せというファラオの命令に逆らって、自分たちに生まれた男の子を3か月間隠しておいた。その子がかわいいのを見て、この子こそ、イスラエルをエジプトから約束の地へ導く神の器であるとの信仰が与えられたからである。

 もう隠し切れないと悟った時、両親はパピルスのかごに太陽の熱と水から守る工夫を施し、その子を中に入れてナイルの流れに飲み込まれないように岸辺の葦の茂みに浮かべた。自分たちにできる最善のことをして、あとはすべてを神様に委ねたのである。そのかごの中で幼子は、声のかぎり、いのちのかぎり泣いていた。その声は神に届き、ファラオの娘に届いた。彼女は泣いていた男の子を見て憐れみの心を抱き、ナイルの水から引き出してモーセと名づけ自分の養子とした。

このモーセの出来事は、後に、イスラエルの民がモーセに導かれて紅海から引き出されエジプトの支配から解放される事、またイエス様の十字架と復活、イエス様を信じる者が洗礼によって死からいのちへ引き出されることの予表であり、親に捨てられて泣いていたモーセの泣き声は、十字架の上で父なる神に捨てられてくださったイエス様の叫びでもあった。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」イエス様が父なる神に捨てられてくださったことによって、私たちキリスト者は神の子とされたのである。赤ん坊が必死で親を呼び求めるように、神の子とされたキリスト者も必死で神様を呼び求めることを八木重吉は、次のように書いた。

「さてあかんぼは なぜ あん あん あん あん 泣くのだろうか ほんとにうるせいよ あん あん あん あん あん あん あん あん うるさかないよ うるさかないよ よんでるんだよ かみさまをよんでるんだよ みんなもよびな あんなにしつっこくよびな」









# by nazach | 2024-03-03 11:45

2024年2月25日 礼拝動画

2月25日礼拝動画を配信いたしました。

■聖書 
「愛を注ぐ」
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         「愛を注ぐ」ヨハネ12章1~11節

 マリアの行動は特別なものでした。高価な香油がこの時、主イエスの足に注がれたのです。何よりも、この時のマリアの行為は、主イエスの葬りの備えとなったということを覚えたいと思います。イエスさまご自身が、7節で、「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」と、言われているからです。彼女はこの時、この場所で、主イエスへの感謝と愛と信仰を、香油を注ぐという思い切った行動で現したのでした。理性的に考えれば、香油を注ぐとしても、少しだけ注ぐのが、まともな使い方です。高価な香油をすべて注ぐことは明らかな無駄使いです。しかし、主イエスはこの聖なる浪費を深く喜び、高く評価してくださいました。それはその美しい行為が、主イエスの葬りの備えとなり、主イエスの死の意味を物語っていたからです。主は言われます。「そのままにしておきなさい。マリアはわたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」と。彼女は、神さまが私たちを救うために行ってくださる尊い十字架の犠牲を認め、その神と御子イエスへの感謝を、そのときにできる最も美しい形で現したのでした。そればかりか、香油を主イエスに注ぐという行為を通して、主イエスが油注がれたお方、真の救い主であることを世に示したのです。マリアがしたことは、ある意味で、イスカリオテのユダが言う通りであったでしょう。5節で彼が言うように、その香油を売って貧しい人々に施すこともできたはずです。しかし、このときユダが語ったことは、いつでもできることであって、今、どうしても必要なことではありませんでした。

かつてマルタとマリアの家を訪れた際に主イエスが言われた言葉が、今回のマリアの行動と重なります。「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」マリアがしたことは、いつでもできることではなく、今、そこでなされる必要のあるただ一つのことでした。それは、愛と真実の神の御子に対して、人として示した最もふさわしい愛と感謝のしるしでした。



# by nazach | 2024-02-25 12:07

2024年2月18日 礼拝動画

2月18日礼拝動画を配信いたしました。

「仕える者となる」

■聖書 マタイの福音書 20章17~28節

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       「仕える者となる」マタイ20章17~28節

 イエス様は言われます。20章28節「人の子が、仕えられるためにではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」と。「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのそなえものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」と、聖書に書かれています。イエス・キリストは十字架にお付きになられることを通して、世界のすべての人々のために御自身のいのちをささげて、世界のすべての人にやさしくしてくださったお方です。そして、主イエスを信じ、愛し、主イエスに仕える者とされた私たちもまた、心優しい人に、真の意味で偉い人にさせていただくのだと思います。

私たちは、自分の力だけで、心優しい人になることはできませんが、確かな方法があります。それは、「ここに愛があるのです」といわれるその愛に触れる道です。それによって、私たちにもキリストのように人を愛し、やさしくできる心が与えられるのではないでしょうか。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」と言う時に、最も偉大なお方としてその先頭に立つイエス・キリストは、罪深く、愛の少ない私たちに優しく仕えてくださるお方でもあります。

英語では礼拝のことをサービスと言います。奉仕する、仕えるという意味です。そして、私たちは今、神に仕えているのだと思いますが、そうした礼拝の理解は不十分です。礼拝をサービス、奉仕と呼ぶのは、第一には、神が私たちに奉仕してくださることを意味しているからです。礼拝において、キリストが私たちに仕えてくださる。その奉仕を感謝して受け入れることから私たちの礼拝は始まります。そのキリストのサービス、御奉仕を真実に受け入れることができた人、そのことへの深い感謝に生きる人は、キリストと同じように、人々に喜んで奉仕する人、仕える人に変えられて行きます。そして、主イエスの姿に似る者に変えられて行きます。その道を共に歩んで参りたいと思います。







# by nazach | 2024-02-18 11:37

札幌ナザレン教会 牧師 古川修二のメッセージ


by nazach